全土に群雄が割拠している建安二年(西暦197年)の正月に袁術(えんじゅつ)が皇帝を称します。
後漢王朝がまだ滅びていない段階でのこの無謀な行為に驚く方も多いと思います。
実際に配下である孫策(そんさく)なども大いに驚いたそうです。
なぜこのような事態になったのか、
それは後漢王朝の中心である献帝が都から行方をくらますという
事件がおきたのがひとつの原因だと思われています。
献帝はどこ?リーダー不在が一年以上続く
一年後になってようやく曹操が許に献帝を迎えますが、落ち着いたのはさらに先のことでしょう。
それが、袁術が皇帝になる前年の建安元年の八月のことです。
確かな情報がすぐに発信される時代ではありません。
もしかすると献帝の崩御説も流されていたかもしれません。
全土を統べる後漢王朝の中心人物が一年以上もいない状態ですから、誰かがリーダーシップをとらねばなりません。
そこで四世三公を輩出した名家の嫡男(後継者争いを北の袁紹と繰り広げていますが)である袁術がその役を引き受けたわけです。
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伝国の玉璽の存在
皇位即位に関しては重要なアイテムが存在します。
伝国の玉璽です。
秦の始皇帝が作り、漢の皇帝も代々使っていた玉印のことです。
「受命于天、既寿永昌」の八字が刻してあります。寿にして永く昌(さか)えん、
とはまさに袁術が本拠地にしていた揚州九江郡寿春県の寿と同じですね。
袁術にリーダーとなれと云っているかのようです。
この玉璽をどうして袁術が所有していたのかは諸説あります。
配下の孫堅が洛陽で拾った物を奪ったとか、孫堅の息子の孫策が兵を借りるのに質代わりに渡したなど、
孫家が係わってくる話がほとんどです。
皇位即位の必需品が手元にあったことも、袁術が皇帝を称するようになる大きな原因です。
ちなみに劉備が即位するときは漢水の川底から玉璽がみつかったことになっています。おそらくこちらは偽物でしょう。
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予言書の讖緯(しんい)の解読
緯書(予言書)と経書(儒教道徳・制度)によって聖人の教えは成り立つというのが讖の考え方です。
後漢では始祖の光武帝が予言書を利用して帝位についています。この時代の政治や思想を理解するうえで欠かせないものです。
魏呉蜀の三国の王朝創始と皇位即位の手続きにも、讖緯による予言の裏付けは必要でした。
これに記された一文があります。
「漢に代わる者は、当塗高(とうとこう)なり」という一文です。
袁術は皇帝即位に際して、この一文を利用しました。
袁術の字は公路といいます。術という文字も路という文字も道という意味で、さらに一文にある塗という文字もまた道のことでした。
つまり袁術は当塗高とは自分を差していると公言したわけです。
かなり強引な解釈ですが、予言書の解釈ですからどうとでもできます。
現に魏が建国されるときも、魏は高いという意味なので、当塗高は魏を差すと公言したくらいです。
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三国志ライターろひもと理穂の独り言
こんなときに何を馬鹿なことをしているの?って思われがちな袁術ですが、
こうして根拠をあげていくと、まんざら馬鹿げた話でもないなと思います。
野心というよりも、自分がやらずに誰ができるんだと周りを見渡したときに、自分しか考えられなかったのでしょう。
ある意味責任感が強かった男だったのかもしれません。
ちなみに袁術の建国した国の名は「仲」だそうです。一説には「成」ともいわれています。
袁術は病死しますが、その娘は孫権の高宮に入ります。
息子の袁耀(えんよう)も孫権(そんけん)に仕えたそうです。
見方によっては、孫権が袁術の王朝を引き継いだという形にも見えます。
袁術の死後、魏や蜀、呉などが建国されますが、袁術を模範としている部分もあります。
時代の先駆者。袁術はそんなパイオニアだったのかもしれません。