孫家は代々呉の役人の家柄だったようですが、孫堅(そんけん)を身籠った母は、
自分のはらわたが飛び出して呉城の昌門に絡みつく夢を見たそうです。
近隣のひとはそれは吉兆の夢だと噂し合ったそうです。
生まれた子供の顔立ちは非凡であったとされています。
17歳で機転を利かせて海賊狩り
孫堅は父との旅の最中、銭唐という場所で海賊が財宝を分け合っている場面に遭遇します。
父の止めるのも聞かずに河岸にとび移り、その場で東西に指揮をしている姿をし、
部隊を展開させているように見せかけて海賊を追い払います。
その後を追って首をひとつ獲ってきたそうです。
現代で換算すると高校生の年頃の話です。恐るべき高校生ですね!
黄巾の乱では馬に救われる
名前がたちまち売れて来て、郡尉となり、県丞(副知事)となって名声を得ます。
丞としての働きも見事で民衆からも慕われたとあります。
ここで184年黄巾の乱が起こります。
孫堅は朱儁に従い黄巾の賊と戦い、武功をあげますが、深入りし過ぎて西華で負傷、落馬します。
この時に乗馬していた黒毛の馬が利口で、本営に駆け戻って地面に倒れて、主人の危機をいなないて伝えたそうです。
お陰で孫堅は発見され、一命を取り止めています。
関連記事:三国志は黄巾の乱から始まった
関連記事:黄巾の乱は、どうして起こったのか? 黄巾賊についてわかりやすく解説
関連記事:実は、最初から作戦に失敗していた黄巾賊
関連記事:太平道の教祖、張角死後の黄巾軍はどうなったの?青州黄巾軍って何?
韓遂の反乱では「董卓斬るべし」
黄巾の乱に引き続き、西北の涼州で韓遂らが反乱を起こします。
討伐軍の大将は中郎将の董卓です。
いつまで待っても鎮静化されないために朝廷は張温を車騎将軍代行とし、孫堅を参謀に任じています。
いつまでも結果を出そうとしない董卓を斬るよう進言した孫堅でしたが、張温は穏便にことを進めます。
韓遂らの反乱軍は大軍が来たことを知って逃げ去っていました。
この戦では誰も成果をあげていませんが、董卓斬るべしと追及した孫堅は株をあげ、議郎に昇格しました。
関連記事:新事実!悪逆非道の代名詞・董卓は実は、かなりいい人だった
関連記事:洛陽に続き、長安でも好き放題をした董卓
関連記事:後漢末の貨幣経済を破綻させた、董卓の五銖銭(ごしゅせん)
関連記事:董卓は実は名将軍であるという根拠
急病用いて張咨をだまし討ち
区星の反乱も鎮めた孫堅は長沙の太守(知事)・烏程侯になっていました。
ここで反董卓連合が結成されます。
孫堅は日ごろからぶつかりあっていた荊州の刺史である王叡を殺し、
孫堅に会おうともしない南陽の太守である張咨に対し一計を謀ります。
孫堅が急病になったから兵を預けたいと伝えたのです。
張咨は喜んで六百の騎兵を率いて病床の孫堅を訪れたところを孫堅は起き上がってこれを斬り捨てました。
袁術、孫堅の妻を人質にし玉璽を得る
スーパーエリートの袁術に南陽を譲った孫堅は、
袁術の上奏により破虜将軍代行と豫州刺史に任じられます。
刺史と云えば地方のトップです異例の出世ですね。
遷都のために洛陽の都に火を放った董卓軍は長安まで逃げており、その焼け跡から孫堅は玉璽を得ます。
それを知った袁術は孫堅の妻を人質にとって、玉璽を奪い取ったともいわれています。
恐らく袁術軍の旗下で働くうえで、用心のため人質を出すように事前に言われていたのでしょう。
逆らうことが許されなかった状況だったのかもしれません。
そして新たな後任の荊州刺史、劉表が来てから、袁術は孫堅を利用して荊州全土の制覇を目指すのです。
孫堅はこの戦いで命を落とします。
37歳という若さで亡くなりました。
海賊狩りからわずか20年です。
スーパーエリート袁術も踏み台にしながら孫堅は怒涛の如き出世をしたのです。
関連記事:記録が乏しい孫堅の妻たち
関連記事:孫堅が伝国の玉璽を手に入れたわけ
関連記事:呉・三国志 孫堅のあっけない最期
関連記事:【保存版】三国志に登場する兄弟をドーンと紹介!!【三國志兄弟物語】
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
県の一役人に過ぎなかった男が、戦乱を階段にし駆けあがっていく姿はまさに下剋上の世界です。
そんな中で名門袁術は最後のステップだったのかもしれません。
もしも孫堅が袁術の右腕として荊州の戦で死なずに生き続けていれば、袁術は武力を持って全土を制覇できたかもしれませんね。
私は孫堅には天下統一の野心などまったくなかったと思っています。
それにもどかしさを感じたのが孫策で、賛同していたのが孫権だったのではないでしょうか。