孫策(そんさく)、字は伯符。揚州呉郡富春県の出身。
周瑜(しゅうゆ)、字は公瑾。揚州盧江郡舒県の出身。
父親は洛陽県の県令を務めた周異です。
二人はともに同じ年で、190年に孫堅が反董卓の挙兵を挙げたときに出会っています。
16歳のころです。
幼少時期からの幼馴染と描かれることもありますが、そうではありません。
孫策の仮住まいを提供
孫堅は挙兵の際に家族を盧江郡舒県に移しました。
ここから二人は無二の親友になっていくのです。
呉書では、周瑜は、仮住まいの孫策に南側の立派な屋敷を提供し、
孫策の母にも礼をつくして、生活に不自由にないように気を配ったそうです。
家格は孫家よりも周家のほうが上です。
なにせ周瑜の一族は周景、周忠と三公の太尉にまでなった名家なのです。
江東進出に駆けつける
周瑜が、丹陽郡の太守になった叔父の周尚のもとに訪れていたときに、
孫堅亡き跡、袁術の配下として江東進出をもくろむ孫策の挙兵を手紙で知ります。
そして手勢を率いて歴陽にいる孫策のもとに駆け付けたのです。
孫策は大喜びして、きみがいてくれたら成功間違いなしだと云ったといいます。
確かにその後の孫策軍は快進撃を続け、曲阿を落としました。
呉や会稽の攻略を目指す孫策に対し、周瑜は丹陽を固めるべく兵を戻します。
袁術とも合流
孫策の勢力拡大を懸念した袁術は、丹陽郡太守周尚を更迭し、従弟の袁胤を太守として送り込みます。
周瑜は周尚とともに袁術の本拠地、寿春に引き上げます。
袁術は周瑜の才に惚れて、将軍に取り立てようとしました。
孫策と周瑜の関係に嫉妬したのかもしれません。
江南で勢力を伸ばす孫策陣営の切り崩しを図ったという見方もあります。
袁術との離別
呉書によると、ここで周瑜は、袁術が何かを成し遂げるような器ではないことを見抜いた。としています。
確かに袁術は197年1月に皇帝を専称し、5月に呂布に敗れ、9月には曹操にも敗れています。
一方で孫策は196年8月に会稽郡を攻略、197年には呉郡を完全攻略と破竹の勢いでした。
袁術よりも時勢は孫策。周瑜は敏感にその流れを感じ取ったのかもしれません。
周瑜は居巣(きょそう)の県長を志願し、それを袁術は聞き入れてしまいます。
居巣と呉とは長江を挟んで目と鼻の先です。
周瑜は居巣を経て、そのまま呉の孫策のもとに行き、
孫策直々の出迎えのもと建威中郎将に任じられ、兵二千、騎馬五十頭を与えられました。
198年孫策・周瑜ともに24歳のときのことです。
孫策が袁術と絶縁をはっきりと宣言したのはこの時期ではないでしょうか。
朝廷から討逆将軍・呉候に封じられています。
翌年、199年6月に周瑜らに見限られた袁術は失意のもと病死します。
関連記事:大喬・小喬は袁術の側室だった可能性が高い!その驚くべき理由とは!?
関連記事:【衝撃の事実】赤壁の戦いに色をつける!袁術の音楽隊が大活躍していた!?
関連記事:孫堅が早死しなければ、袁術が天下統一をした?元海賊狩りから異例の出世をした漢に迫る!
江夏郡の太守へ
呉の人々はみな親しめて「周郎」と呼んだそうです。
周瑜が郷里の盧江郡の信望を一身に集めていることを孫策は知っていたので、
周瑜を牛渚に派遣し、春穀県の県長に任じました。
荊州支配を目指す孫策はそのまま周瑜を中護軍に任じ、あわせてこれから奪う江夏郡太守の地位にすえました。
そして盧江郡の皖城を劉勲から奪い、荊州の江夏郡太守の黄祖を撃退して江夏を制したのです。
関連記事:周瑜(しゅうゆ)ってどんな人?赤壁の戦いで曹操軍を破った智将軍
関連記事:周瑜の名言から知る三国志の世界「人生れれば死あり。修短は命なり」
関連記事:孫策と周瑜の怪しい関係は事実だったの?子不語にある逸話を紹介!
関連記事:周瑜公瑾の輝かしい功績
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
山あり谷ありの波乱の人生を過ごした孫策を支えてきた周瑜。
二人の交わりは、金をも切断するほど固く結ばれた友情だったといわれています。
所謂、「断金の交わり」です。
関わり合いを深くすることになるその背景には袁術の姿があります。
スーパーエリート袁術からの独立・自立を目指し苦悩することで、互いはさらに強く結びついていくのです。
この場合、切断される「金」はまさに袁術です。
魏呉蜀と袁術の仲をして「四国志」と呼ぶ所以は、そんな袁術の影響力を考慮してのことかもしれませんね。