秦の始皇帝の時代ってどんな時代?分りやすく解説するよ

2016年6月16日


 

王騎 キングダム

 

キングダムの時代は、一体どんな時代なのでしょう?

そして、始皇帝とは一体、何をして有名になったのでしょうか。

はじめての三国志』では、それを超分りやすく説明します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秦の始皇帝が生まれた頃、中国はどうなっていた?

趙政

 

始皇帝は紀元前259年の正月に趙という国で生まれました。

その頃の中国は、秦・・趙・・韓という

7つの国に分かれて、およそ500年、

お互いに離合集散しながら、大戦争を繰り返した時代です。

 

当時は農業生産力が向上して人口が増加していた頃で、

戦争の規模も大きくなり、一度の戦争で何万人、

時には何十万という人間が死ぬのも珍しくありませんでした。

 

やがて始皇帝は、生まれた趙から秦に帰国し、

悲しい戦争が、度々起きる戦乱の世を終わらせて、

中国を一つにすると決意します。

これは、当時、誰も考えなかった壮大な夢でした。

始皇帝、呂不韋を追放して自ら政治を行う

キングダム 政

 

紀元前247年、13歳で即位した始皇帝ですが、

その実権は始皇帝を即位させるのに手柄があった

呂不韋(りょふい)という人に握られました。

当初の始皇帝は籠の鳥だったのです。

 

呂不韋

 

しかし、呂不韋は始皇帝の母との間で不倫が発覚、

それを誤魔化す為に、色々と策謀を巡らしますが、

結局はバレて、始皇帝は呂不韋を処断して

自分の手で政治を行えるようになります。

 

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始皇帝、韓非の考えを採用して、人材を登用し秦を強くする

韓非 キングダム

 

始皇帝は、性善説ではなく、厳しい法律で人を縛り、

悪事を減らして善事を増やすという法家という

思想家の考え方を採用します。

特に韓非(かんぴ)という人の考えがお気に入りでした。

 

法家は厳しい制度ですが、不正は必ず処罰し、

手柄には必ず褒美をとらせるという制度でしたので、

秦の人々はやる気を出し、軍隊はとても強くなります。

 

信 キングダム

 

始皇帝は、さらに、能力のある人は、秦の人でなくても

身分が低くても問題にせず、どんどん登用したので、

王翦(おうせん)李信(りしん)や、蒙恬(もうてん)

王賁(おうほん)、というような有能な将軍を

沢山出して、残りの六国を攻略させます。

 

こうして、即位して26年で始皇帝は六国を滅ぼし

500年続いた戦乱の時代を終わらせたのです。

 

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王ではなく新しい皇帝の称号を造る

キングダム 始皇帝

 

中国を統一した始皇帝は、自分の業績は古の三人の神皇、

そして、古代の五人の帝を併せた業績よりも凄いと考え、

神皇と帝から一字づつ取り、皇帝という称号を造ります。

 

そして、最初の皇帝なので始皇帝と名乗りました。

実は始皇帝は、この時からの称号で、それ以前の始皇帝は

秦王政と名乗っていました。

 

運河を掘り、貨幣を統一し、道路を整備して文字を統一

始皇帝

 

さらに始皇帝は、広大になった領土を効率よく統治する為に、

各種の大事業を起こします。

 

まず、当時バラバラだった貨幣を秦の貨幣に統一します。

これで商売は格段にやりやすくなりました。

また、馬車の車輪の幅を統一して、道路の幅も一定にします。

これにより、道路網が整備され交通が快適になりました。

 

そして、人口を支え、水運を便利にしようと各地に運河を掘ります。

これは商業を発展させ、人の往来を便利にし、農業生産力を上げました。

漢字を統一したのも始皇帝です、これで中国中どこにいても、

人々は同じ漢字を使用して物事を伝達できるようになります。

あと、これは評価が二分しますが、当時、国境を越えて

中国に略奪にやってきた匈奴を抑える為に長大な城壁である

万里の長城を築かせて、これを防ぎました。

 

これにより、中国は一つにまとまるようになりました。

その後も中国は分離と統一を繰り返しますが、

この「中国は一つ」という考えを漢民族に植え付けたのが始皇帝なのです。

 

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中央集権制度を造り、中国王朝二千年の基礎を築く

始皇帝

 

始皇帝は、そればかりでなく、中国の国の仕組みも変えます。

それまでの王朝は、国を統一すると、手柄を立てた家臣や、

自分の一族を中国の各地に派遣して小さな国を立てさせました。

 

これを封建体制と言います、

日本でも、鎌倉、室町、江戸幕府は

この封建体制を採用していました。

 

しかし封建制度は、何百年が過ぎると、

それぞれの小国の主が本国の王よりも

地元の利益を優先して命令に背いたり、

ひどい場合には、王の土地に攻め込んだりしました。

 

始皇帝は、このような弊害をなくす為に、

各地に家臣や一族を派遣して小国を建てさせるのを止めます。

代わりに中国を36の区域に分けて郡とし、その郡をさらに

細かく分けて県として、中央から役人を派遣して治めさせました。

 

この役人は、数年が経過すると、配置変えになり異動します。

その為に土地の人間と結託する事がなく、

ただ、皇帝の命令通りに働き、

税金を上に上納する存在になります。

こうして、一人の皇帝が、各地の役人を使って

全土を支配する制度を中央集権体制と言います。

 

実は、この中央集権制度の基本的な枠組みは、

今、世界中の国で採用されている制度で、

もちろん日本でも採用されています。

 

このように始皇帝の政策は、中国ばかりではなく、

世界中に大きな影響を与えているのです。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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