三国志の時代では、医療に関して華佗(かだ)という名医がいたことが知られています。
彼は、この時代では珍しい「麻酔薬」を使用したり、
また歴史で初めて外科手術をした医師ということで知られています。
また、「漢方薬」等の内服薬を用いることで、身体の異常を和らげたり、治療することもできます。
とはいえ、現代と比べると当時の医療は水準が低く、治療の選択肢も限られておりました。
当時の医療技術ですから、荒療治の様な治療法を施さねばならない場合も多々ありました。
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この記事の目次
三国志時代の医療
荒療治として良く知られているのは関羽の腕に刺さった毒矢の傷を
華佗(かだ)が切り開いて毒を削り落とす、というエピソードです。
麻酔も無く腕をザクザク切り開く等、常人にとっては気絶モノの荒療治ですが、
関羽は平然とそれを麻酔無しで受けた上に、同時に囲碁を打ったり、
食事したり、談笑したりしていたようです。
さて、関羽の英雄ぶりはともかく当時の医療水準では現代ほどの知見は得られていなかったため、
「人体は何をどうすればどうなるか?」ということが分からなかったのです。
そのため、怪我や病に対してどう対処すればよいかわからず、
結果として先ほどのような荒療治をするしかなかったわけです。
今回は、このような三国志時代での荒療治の事例を紹介します。
これは手術か? 留賛の発明した外科手術の民間療法!?
留賛(りゅうさん)は、字(あざな)は正明(せいめい)であり、呉の武将です。
留賛(りゅうさん)は郡の役人として仕えていました。
当時、黄巾賊が各国の至る所で反乱をおこしており、
その鎮圧のために留賛(りゅうさん)は自ら兵を率いて討伐にあたっていました。
ある時、黄巾賊の首領である呉桓(ごかん)を討ちとりましたが、自身も傷を負いました。
傷を治療し、養生していましたが、傷が治ったにもかかわらず、
足が曲がったまま動かなくなってしまったため、
立ち上がることができず、そのまま歩けなくなってしまいました。
このような場合、現代の知識があれば、「傷が癒えたのになぜ異常が残っているのか」
「何が原因で足が曲がったままなのか」、それを人体の解剖学的に考え、
そこから合理的な治療方法を考えます。
しかし、当時はそのような知識は無く、
まして医師でもない人が人体はどうなっているかなど知る術はありませんでした。
そのため、留賛(りゅうさん)は、歩けないまま、日々を過ごしていました。
そんなある日、彼は書を読んでいる時のことでした。
留賛(りゅうさん)は、兵法書を読み先人達の英雄としての姿に感嘆していました。
留賛(りゅうさん)「私の祖先はこんなにも偉業を成し遂げている・・・。
なのに、私は偉業を成し遂げるどころかこんなところで歩くこともままならぬ。何と情けない・・・・。
こうしてはいられない!!!。」
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足の筋を切断
元々気性の激しい留賛(りゅうさん)は、一刻も惜しいとばかりに家族を集めて、今から足を治すと宣言しました。
その治療方法とは、足の筋を切断することで、曲がったままの足を伸ばすという先駆的な医療のように見えて、
その実自殺行為そのものでした。
ただ、彼の考えでは、「曲がったままで歩けないならば、邪魔な部分を斬ってしまおう」という考えだったのではないかと思われます。
突然の申し出に、親族は猛反対しましたが、制止を振り切った留賛(りゅうさん)は、足の筋を切断してしまいました。
すると、あまりの激痛にその場で気絶してしまいました。
しかし、家族が気絶した彼の足を引き延ばしたため、ようやく彼は足を伸ばすことができました。
さらに、そのまま引き延ばした状態で足を固定していたため、傷が治る頃には、
足を引きずりながらもなんとか歩けるようにはなりました
このエピソードを聞いた凌統(りょうとう)は、留賛(りゅうさん)を孫権(そんけん)に推挙し、
官職につき後に武将として活躍することになりました。
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関羽はやはり鬼神だった! 周瑜の絶望外科手術
周瑜(しゅうゆ)は字(あざな)は公瑾(こうきん)で、呉の孫策(そんさく)の義弟であり、
呉の大都督として赤壁の合戦で名を馳せた智将として知られています。
彼は赤壁で勝利を収めた後、南郡の制圧に乗り出しました。
呉の南郡制圧の際に、魏の曹仁(そうじん)達の守る南郡城に侵攻した時のことです。
この時、魏軍は近隣の城を取られたばかりで、士気が落ちており、呉軍は対照的に勢いに乗っている状態でした。
曹仁(そうじん)「丞相(じょうしょう、
曹操(そうそう)のこと)がこの時のために残してくださった封書の作戦通りに動くのじゃ。」
そして、魏と呉の軍勢が衝突し、その結果魏が敗走する形になりました。
南郡城が空になったのを見てとった周瑜(しゅうゆ)はそのまま南郡城を占領しようと自ら軍を率いて中に入りました。
しかし、城内には落とし穴がいくつも掘られており、多くの兵は穴に落ちてしまいました。
さらに、少数の魏軍が城壁の上に伏せており、
周瑜(しゅうゆ)が城内に入ったのを見るや否や矢を雨のように浴びせました。
脇腹に矢を受けた周瑜(しゅうゆ)は落馬し、友軍に救われて辛うじて撤退しました。
しかし、周瑜(しゅうゆ)を射た矢には毒が塗られていました。
また、素人が矢を無理に引き抜いたために、鏃が体内に残った状態になってしまいました。
軍中の医師が治療にあたりましたが、その治療方法は関羽(かんう)と同様に、
鑿と槌で肉を切り開いて鏃を取り出すというものでした。
周瑜も手術を受けるが・・・・
現代でも、銃弾などを受けて人体に弾丸が残った場合等、人体に異物を残してはいけないので、
麻酔下で余計な出血を生じないように最小限の損傷で異物を取り出すという作業を行います。
しかし、当時では「とりあえず、異物を出すために切り開くしかない」というスタンスだったのでしょう、
患者の精神や肉体への余計な負担等の配慮はありませんでした。
そして手術中、
周瑜(しゅうゆ)「…痛っ、痛い痛い!痛いんだけど。」
医師「動かないでください。肉を切り開けません。(木槌でコンコン鑿を叩く)」
周瑜(しゅうゆ)「とはいわれても・・・痛い!痛い痛い!これ無理でしょ!無理無理、中断中断!ストップストップ!!!」
医師「(部下に対して)動かないように手足を押さえてください。」
周瑜(しゅうゆ)「は? 何言ってんの? 放せ馬鹿、痛いって、無理無理無理ゼッタイ無理!グゲァ、ギャアアア、くぁwせdrftgyふじこlp!!!」
周瑜(しゅうゆ)の絶叫の中行われた手術ですが、ひとまず治療は施せました。
関羽(かんう)は、同様の手術中に平然と囲碁をやっていましたが、
関羽(かんう)は鬼神であるので周瑜(しゅうゆ)が情けないのではありません。
後にこの傷を利用して敵を陥れる等の転んでもただでは起きないような活躍を見せます。
一方で、この傷が命を落とす要因ともなっていますので、やはりかなりの荒療治ではあったのかもしれません。
愛ある治療・・・郭汜(かくし)妻の解毒療法
菫卓(とうたく)は一時朝廷を支配していましたが、
菫卓(とうたく)死後、李傕(りかく)と郭汜(かくし)が朝廷内で権力を握って行きました。
李傕(りかく)は大司馬に、郭汜(かくし)は大将軍となり、その権力とそして軍事力のために、
朝廷の臣下は誰一人口出しできなくなっていました。
しかし、郭汜(かくし)妻はなにやら李傕(りかく)の夫人と郭汜(かくし)がなにやら最近仲が良いやら、
お互いご執心やらの噂を聞き、郭汜(かくし)の帰りがやけに遅いやらで、なにやら不穏な空気を感じ取ります。
郭汜(かくし)妻「まあ、あの人ったら私というものがありながら、キイィィィィィィ!!!(ヒステリック)」
もともと嫉妬深い郭汜(かくし)妻は、李傕(りかく)の館に郭汜(かくし)を行かせないように画策します。
しつこく引き留め、意地でも館には向かわせない郭汜(かくし)妻。
一方の李傕(りかく)は郭汜(かくし)を調停の用が終わったタイミングで誘い、酒宴を行いました。
夜に家に帰った郭汜(かくし)は、突然の腹痛に苦しみます。
どうやら、食事に毒が盛られていたようです。
郭汜(かくし)の妻は、糞尿を取り寄せてきて、
郭汜(かくし)の妻「さあ、これを飲んで!」
郭汜(かくし)「ウーン痛い・・・それは何だ。」
郭汜(かくし)の妻「早く飲みなさい!(無理やり飲ませる)」
郭汜(かくし)「ちょっとまって、何これ臭っ!近づけるなよ、臭い!うっぷ、オエェェ(嘔吐)」
酒宴で食べたものを全て吐き出した郭汜(かくし)は、腹痛が治まったことに気がつきます。
李傕(りかく)に毒を盛られたことに怒った郭汜(かくし)は、報復を考えるのでした。
何はともあれ、妻の愛で無事、郭汜(かくし)は全快しました。
・・・というのは建前上の話で、嫉妬深い郭汜(かくし)の妻が郭汜(かくし)に毒を盛って、
それを自分が救出することで李傕(りかく)との仲を、つまりは李傕(りかく)の妻との仲を裂こうとしたのでした。
自作自演とはいえ、解毒のための荒療治は郭汜(かくし)の妻によって確立されました。
現代であれば、毒に対しては害虫や害獣からの毒の場合は抗毒血清やステロイド剤を用いますが、
経口摂取した毒に対しては、急いで吐くのが良いとされています。
そのため、糞尿を飲むというデメリットはともかく、最良の治療方法となります。
なお、正史では糞尿を飲ませた人物ははっきりしておらず、郭汜(かくし)自ら飲んだという可能性があります。
三国志ライターFMの独り言
三国志といえば、中国です。
中国と言えば、漢方です。漢方薬の起源の国であるわりに、結構力技な治療が多いようですね。
やはり当時は、人体の構造の解明や医療手段の発展ができていなかったのが要因かもしれません。
留賛(りゅうさん)は、どうすれば歩けるようになれるか分からなかったため、
足の筋を切断するという方法を取りました。
周瑜(しゅうゆ)は、麻酔無しで手術をしましたが、麻酔という方法が確立されていれば、
患者が暴れまわりながらかつ医師は手元を狂わしながら「治療と関係ない傷」や「意識の高ぶり」によって、
無駄に身体や精神にダメージを与えるようなこともなかったでしょう。
現代の「インフォームド・コンセント」なんて配慮していたら、戦争なんてしてられなかったかもしれませんが。
医療が発展しなかった理由は、当時医師という職業があまり高碌の職業ではなかったためらしいです。
また、大陸の統一がされていないがために、国家間の軋轢があるので、医師間の交流等も無く、発展のすべもなかったのでしょう。
華佗(かだ)は、大陸を歩いては患者を見つけ治療しており、例外的な存在だったのかもしれません。
しかし、「医療の発展が無かったから当時の人はバカな治療をした」というわけではありません。
関羽(かんう)は、その治療の逸話からもかなりの豪傑であったことが分かりますし、
留賛(りゅうさん)は、治療のエピソードが原因で呉の武将となり名を残しております。
逆に、こういった荒療治があったからこそ、三国志の武将の凄味が増すのではないでしょうか。
それにしても郭汜(かくし)の妻は、旦那を取られたくないがために、旦那に毒を盛るというのは、恐ろしいですね。
そもそも、大事な旦那を取られたくないからと言って、大事な旦那に毒を盛るとは本末転倒ですね。
愛する大事な旦那に糞尿を飲ませる部分も、愛しているのに嫌がらせしているようで本末転倒な気がしますね。
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