三国志の時代では、主に男性が兵として戦っています。
これは当たり前と言えば当たり前ですが、三国時代において女性はどうしていたのでしょうか?
戦乱の世なのだから、多くの女性や子供は戦争の犠牲者となっていたことでしょう。
そうした戦乱の中でも、強く生きてきた女性たちがいます。
今回はそうした女性たちの中でも、有名人物の「母親」を御紹介します。
三国時代の母親達
歴史に名を残すような女性達は、いずれも有名武将の妻や親族ですが、
それだけでは名前しか残っていません。
今回は名前に関わらず、功績を重視して有名人物の
「母親」をピックアップしました。
中には、名前すら記録されずに「○○の母」等と記録されている人物もいますが、
そのような人物も含めてご紹介します。
劉禅の養母 麋夫人
劉備(りゅうび)の妻は何人かいますが、ここでは麋夫人(びふじん)のことを指しています。
麋夫人(びふじん)は長坂の戦いにおいて、趙雲(ちょううん)とはぐれてしまい、
劉備(りゅうび)の子、阿斗(あと)を抱えて、曹軍の中に置き去りにされてしまいました。
その時、敵軍の真っただ中を駆けてきた趙雲(ちょううん)によって保護されます。
しかし、ここで問題が生じます。
趙雲(ちょううん)「私が来たからには安心です。さあ、早く馬にお乗りください。」
麋夫人(びふじん)「私が馬に乗ったらあなたはどうやって敵軍の中を逃げるのですか。
私がいては足手まといです。
でも、この子は後継ぎとして必ず必要となるでしょう。
この子だけでも逃がしてください(井戸に身を投げる)」
趙雲(ちょううん)「奥方様あぁぁぁ!!! ・・・何ということだ。
こうなっては、阿斗(あと)様だけでも我が君の元に届けなくては。」
阿斗(あと)の実の母親は甘夫人(かんふじん)なので、
阿斗(あと)は麋夫人(びふじん)の実の子ではないのですが、それでも自らの命を顧みず救うという感動のシーンです。
この時の彼女の功績がいなければ、
阿斗(あと)つまり劉禅(りゅうぜん)の命は無く、歴史は変わっていたかもしれません。
この場合、劉封(りゅうほう)が跡継ぎになるのでしょうか。
関連記事:実子劉禅(りゅうぜん)と養子劉封(りゅうほう)の明暗
関連記事:かわいそうな阿斗(あと)の壮絶な人生
姜叙の母が我が子に一喝!
潼関の戦いにて、曹軍に敗れた馬超(ばちょう)はその後、
涼州の魏軍の領土を攻め取っていきます。
涼州刺史の韋康(いこう)は冀城を守っていましたが、馬超から冀城を守りきれないと判断し、
部下の楊阜(ようふ)の再三に渡る諫めも聞かず、馬超(ばちょう)に降伏してしまいました。
しかし、その後韋康(いこう)は馬超(ばちょう)に殺されてしまいました。
しかし、楊阜(ようふ)は生かされ、重用されることとなりました。
楊阜(ようふ)はそんな状況に納得しているわけは無く暇を貰い、
歴城に出向き従兄弟にあたる姜叙(きょうじょ)の母に、思いの丈を吐き出しました。
楊阜(ようふ)「主は私の諫めを聞かず、命を落としてしまった。
私は主を諫められなかったばかりか、その死に際に御供することすら叶わなかった。
何と情けない。姜叙(きょうじょ)は歴城にいながら、なぜ指を加えてみているのか。」
姜叙(きょうじょ)の母「なんと嘆かわしい・・・。
姜叙(きょうじょ)!こっちいらっしゃい!!!」
姜叙(きょうじょ)「どうしたの? ママン。」
姜叙(きょうじょ)の母「こんなところで何ぼさっとしてんの!
逆賊の馬超(ばちょう)を何で野放しにしているの!!」
姜叙(きょうじょ)「いやぁ、でも、だって・・・ほらっ
戦になったらママにだって迷惑がかかるしさ」
姜叙(きょうじょ)の母「何女々しいこと言ってんの! 誰でも一度は死ぬものよ!
忠義のために死んでこそ、良き死に方というものです!!!
そんなくだらない理由なら、この場で私の命を絶って心残りのないようにしてあげます!!!」
これを聞いた姜叙(きょうじょ)は渋々ながら、楊阜(ようふ)に協力することにしました。
【次のページに続きます】