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【母は偉大なり】三国志の英雄を支えた偉大な母たちを紹介!

2016年6月29日


 

呉夫人

 

三国志の時代では、主に男性が兵として戦っています。

これは当たり前と言えば当たり前ですが、三国時代において女性はどうしていたのでしょうか?

戦乱の世なのだから、多くの女性や子供は戦争の犠牲者となっていたことでしょう。

そうした戦乱の中でも、強く生きてきた女性たちがいます。

今回はそうした女性たちの中でも、有名人物の「母親」を御紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国時代の母親達

孫堅の妻

 

歴史に名を残すような女性達は、いずれも有名武将の妻や親族ですが、

それだけでは名前しか残っていません。

今回は名前に関わらず、功績を重視して有名人物の

「母親」をピックアップしました。

中には、名前すら記録されずに「○○の母」等と記録されている人物もいますが、

そのような人物も含めてご紹介します。

 

劉禅の養母 麋夫人

劉備と4人の妻

 

劉備(りゅうび)の妻は何人かいますが、ここでは麋夫人(びふじん)のことを指しています。

麋夫人(びふじん)は長坂の戦いにおいて、趙雲(ちょううん)とはぐれてしまい、

劉備(りゅうび)の子、阿斗(あと)を抱えて、曹軍の中に置き去りにされてしまいました。

その時、敵軍の真っただ中を駆けてきた趙雲(ちょううん)によって保護されます。

しかし、ここで問題が生じます。

 

趙雲(ちょううん)「私が来たからには安心です。さあ、早く馬にお乗りください。」

麋夫人(びふじん)「私が馬に乗ったらあなたはどうやって敵軍の中を逃げるのですか。

私がいては足手まといです。

でも、この子は後継ぎとして必ず必要となるでしょう。

この子だけでも逃がしてください(井戸に身を投げる)」

 

趙雲 長坂の戦い

 

趙雲(ちょううん)「奥方様あぁぁぁ!!! ・・・何ということだ。

こうなっては、阿斗(あと)様だけでも我が君の元に届けなくては。」

 

阿斗(あと)の実の母親は甘夫人(かんふじん)なので、

阿斗(あと)は麋夫人(びふじん)の実の子ではないのですが、それでも自らの命を顧みず救うという感動のシーンです。

この時の彼女の功績がいなければ、

阿斗(あと)つまり劉禅(りゅうぜん)の命は無く、歴史は変わっていたかもしれません。

この場合、劉封(りゅうほう)が跡継ぎになるのでしょうか。

 

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姜叙の母が我が子に一喝!

馬超仲間入り

 

潼関の戦いにて、曹軍に敗れた馬超(ばちょう)はその後、

涼州の魏軍の領土を攻め取っていきます。

涼州刺史の韋康(いこう)は冀城を守っていましたが、馬超から冀城を守りきれないと判断し、

部下の楊阜(ようふ)の再三に渡る諫めも聞かず、馬超(ばちょう)に降伏してしまいました。

しかし、その後韋康(いこう)は馬超(ばちょう)に殺されてしまいました。

しかし、楊阜(ようふ)は生かされ、重用されることとなりました。

楊阜(ようふ)はそんな状況に納得しているわけは無く暇を貰い、

歴城に出向き従兄弟にあたる姜叙(きょうじょ)の母に、思いの丈を吐き出しました。

 

楊阜(ようふ)「主は私の諫めを聞かず、命を落としてしまった。

私は主を諫められなかったばかりか、その死に際に御供することすら叶わなかった。

何と情けない。姜叙(きょうじょ)は歴城にいながら、なぜ指を加えてみているのか。」

 

姜叙(きょうじょ)の母「なんと嘆かわしい・・・。

姜叙(きょうじょ)!こっちいらっしゃい!!!」

 

姜叙(きょうじょ)「どうしたの? ママン。」

 

姜叙(きょうじょ)の母「こんなところで何ぼさっとしてんの!

逆賊の馬超(ばちょう)を何で野放しにしているの!!」

 

姜叙(きょうじょ)「いやぁ、でも、だって・・・ほらっ

戦になったらママにだって迷惑がかかるしさ」

 

姜叙(きょうじょ)の母「何女々しいこと言ってんの! 誰でも一度は死ぬものよ!

忠義のために死んでこそ、良き死に方というものです!!!

そんなくだらない理由なら、この場で私の命を絶って心残りのないようにしてあげます!!!」

 

これを聞いた姜叙(きょうじょ)は渋々ながら、楊阜(ようふ)に協力することにしました。

 

 

姜叙の母が馬超にも一喝!

 

馬超フルボッコ01

 

楊阜(ようふ)らは計略を以て馬超(ばちょう)を攻撃し、

さらに援軍の夏侯淵(かこうえん)が到着したため、馬超(ばちょう)は冀城に退却したものの、

冀城では楊阜(ようふ)の手の者が馬超(ばちょう)を追い散らしました。

やむを得ず退却した馬超(ばちょう)は歴城になだれ込み、姜叙(きょうじょ)の館に押し入りました。

 

馬超(ばちょう)「許せん! こうなったら、刃向かった姜叙(きょうじょ)の一族を皆殺しにしてくれる!!!」

姜叙(きょうじょ)の母はここで馬超(ばちょう)と出くわしましたが、怖気づくことも無く、

姜叙(きょうじょ)の母「この逆賊が! あなたのような反逆者が良くのうのうと生きてられますね!!

他人の家にずけずけ入ってきて、どんな教育受けているの!!!」

 

等と馬超(ばちょう)を罵り続けました。

これに激怒した馬超(ばちょう)により姜叙(きょうじょ)の母は殺されてしまいました。

しかし、命を賭して子に忠義の道を教えたその生き様はまさに母親の鑑だったのではないでしょうか。

 

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曹操に一喝! 徐庶の母

徐庶

 

徐庶(じょしょ)は蜀の劉備(りゅうび)に一時期仕えていた軍師です。

徐庶(じょしょ)は劉備(りゅうび)が荊州新野にいた時に出会い、劉備(りゅうび)軍の軍師となります。

そして、新野城における曹軍との戦いにおいては数で勝る曹仁と李典の軍を、軍略を以て破っています。

この時、劉備(りゅうび)軍のこれまでとは違った洗練された戦いを聞き、

曹操(そうそう)は徐庶(じょしょ)に興味を持ちました。

そして、何とか自軍に引き入れたいと考えました。

曹操(そうそう)は徐庶(じょしょ)が親孝行なことを知ると、

徐庶(じょしょ)の母親を迎えてこう言いました。

 

曹操(そうそう)「あなたの息子は、朝廷に逆らう逆賊の味方をしていますよ。

こんなことをさせてはいけないじゃないですか(作り笑顔系スマイル)」

 

徐庶(じょしょ)の母「劉備(りゅうび)という人は、民や百姓にも知られるくらい良くできた人です。

そんな人に仕えられるなんて、あの子は幸せ者だと思います。」

 

曹操(そうそう)「(ムカッ、何このババァ!)いやいや、あんな奴はただの田舎者で

私利私欲のために朝廷に侵略に来ているのですよ (作り笑顔系スマイル)」

 

徐庶(じょしょ)の母「私利私欲で侵略したのは貴方ではないですか。」

 

曹操(そうそう)「(何コイツ!めちゃくちゃ無礼なんだけど)あっはっは、

奥さん何をおっしゃっているのですか? (崩れ気味系スマイル)」

 

徐庶(じょしょ)の母「帝をないがしろにして朝廷を乗っ取ったのは貴方の方です!!!」

 

曹操(そうそう)「こちらが下手に出ていればつけ上がりおって! こやつの首を刎ねい!」

 

そこへ部下が現われます。

 

曹操(そうそう)の部下「いけません。彼女の思うツボです。

彼女は死ぬ覚悟であのように言っているのです。彼女が死ねば、徐庶(じょしょ)は我々の元に降ることは決してありません。

逆に全力でこちらを潰しにくるでしょう。全ては彼女の掌の上での出来事ですぞ。」

 

曹操(そうそう)「ぐぬぬ」

 

仕方なく、徐庶(じょしょ)の母を厚遇しながら、作戦を考える曹操(そうそう)。

ある時、日頃のお礼として徐庶(じょしょ)の母が手紙を送ってきました。

曹操(そうそう)はこれを使って筆跡を真似させ、

徐庶(じょしょ)に手紙を書き、自軍に呼び寄せることができました。

 

徐庶の母のその後と正史と演義の違い

徐庶 曹操 下る 三国志

 

こうして徐庶(じょしょ)は劉備軍を去り、曹軍に来ましたが・・・。

 

徐庶(じょしょ)の母「私の手紙で、このようなことになってしまうなんて・・・。

こんなことならば、早く死んでしまえばよかった(瞬く間に自害)」

徐庶(じょしょ)「ああっ! マミィー!!!」

 

曹操(そうそう)「(徐庶よ。こうなったのも全て劉備のせいなのだ。

私とともに劉備を破ろうではないか)しめしめ、我々の計略で徐庶(じょしょ)が我が軍に来てくれたぞ。手紙作戦成功だな。」

曹操(そうそう)の部下「本音と建前が逆になってますけど・・・」

 

上記のような会話は実は存在せず、正史では親子ともども曹操(そうそう)の元で厚遇されていたそうです。

しかし、死を厭わず反抗したその姿は、真似できる者は少ないのではないでしょうか。

 

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三国志ライターFMの独り言

FM

 

三国志では、今回紹介したような『名前すらない誰かの母親』も登場します。

そういうキャラクターは「○○の母」という形で、名前は無くともその功績は残されています。

 

彼女らがなぜ記録に残されているのかは、やはりその功績からだと思います。

麋夫人は、漢室の血筋を絶やさぬため、そして子に「漢室再興」の使命を全うさせるため、

自ら命を投げ出しました(史実では生きています♪)。

 

姜叙(きょうじょ)の母に関しては、彼女がいようがいまいが、恐らく馬超(ばちょう)は結局敗走していると思います。

しかし、彼女の我が子を突き動かすための一喝は、忠義を失い道に外れた我が子のための一喝でした。

そうした観点では、「子の忠節のために、自らの命すらも捨てる」そういう強い意志の現われに見えます。

 

徐庶(じょしょ)の母は、徐庶(じょしょ)の忠義を守るために、

死を覚悟して曹操(そうそう)を一喝しました。

子の未来を思えばこその行動だったと思います。

そういう意味では、母親の鑑と言えるでしょう。

いずれにも共通しているのは「子に使命を全うさせるため、自らの死も厭わぬ」という点です。

一見物騒ですが、三国時代の女性の生き様としては、彼女らの生き方は模範的なものだったのでしょう。

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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