私達は中国王朝の官吏採用試験というと「科挙」という紙のテストを思い起こします。しかし、この科挙が制度化されたのは、6世紀末、隋(ずい)の時代以後の事でした。それ以前には、あの曹丕(そうひ)が定めた九品官人法(きゅうひんかんじんほう)が何と400年近くも人材登用の基礎になっていたのです。
ところが本来は、門閥に縛られず、優秀な人を採用するという理想から生まれた九品官人法は逆に貴族階級を産み社会を停滞させました。その理由は何か?今日は試験にも出る九品官人法をポイントで解説します。
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九品官人法前夜 郷挙里選(きょうきょりせん)
九品官人法以前の中国では、郷挙里選(きょうきょりせん/ごうきょりせん)という人材登用法が採用されました。これは、各地の長官に毎年、最低一人の人材を推薦するように義務づけるもので、それを選ぶのは、その地方の豪族達による合議でした。最初の頃は機能した、郷挙里選ですが、選ぶのは土地の豪族である為に、能力よりも、地方の豪族の利益を代表する人物が選ばれるようになります。
特に、それは唯才令(いさいれい)を掲げて派閥のしがらみを越えて有能な人材を集めようとした曹操(そうそう)には都合が悪く、また、中央では推挙された人材が地域の派閥毎に割拠してしまうので国家の意志より豪族の意志を優先する弊害が生まれました。
曹丕は陳羣の意見を入れて九品官人法を採用する
曹操は郷挙里選を廃止する事なく死去しますが、その後を受けた曹丕は、すぐに尚書の陳羣(ちんぐん)の意見を入れて九品官人法を採用します。曹丕は、その後、後漢の最後の皇帝、献帝(けんてい)に禅譲させて後漢を滅ぼし魏を建国するので、九品官人法は、とりも直さず新王朝、魏の為の制度でした。
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九品官人法の肝は国家が自分達に従う人材を選ぶ事
九品官人法では、人材の推挙者は、地方の豪族ではありませんでした。それは、中正官といい郡毎に一人ずつ、皇帝が任命します。ここから、九品官人法は、九品中正法と呼ばれる事もあります。中正官は皇帝の家臣なので、地方の豪族とは関係ありません。そこで、豪族の思惑に関係なく魏王朝にとって有益な人材を推挙してくれると曹丕は考えていたのです。
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九品官人法の制度とは、どんなものか?
九品官人法では、一品から九品まで身分のランクが存在しています。中正官は、人材を推挙する際に、能力に合わせて品を与えていきます。例えば、中正官に二品と評価された人物は、その4ランク下の六品からキャリアがスタートし、順調に行けば二品まで上れました。
この中正官が最初にランク付けする官位を郷品(ごうひん)と言い4ランク下の出発点を起官家(きかんけ)と言いますが、九品官人法では、どんなに出世しても、この最初につけられた郷品を上回る事は出来ませんでした。つまり、最初で中正官に四品とランクづけされると、最初の起官家は八品になるのですが、そこからどんなに頑張って昇進しても三品になる事は出来なかったのです。ここが、この九品官人法の最大の欠点であり、後に門閥貴族が高い地位を独占する弊害を産みます。
司馬懿が中正官の上に州大中正を置き貴族化が固定される
この九品官人法の法制上の欠陥は、すでに魏の重臣の夏侯玄(かこうげん)が指摘していました。
「これなら、地方豪族は確かに人事に介入できないが、逆に中正官と癒着した勢力が人材登用を意のままに操れるではないか?もっと中正官の権限を縮小すべきであろう!」
しかし、その提言を受けた司馬懿(しばい)は夏侯玄の意見を握りつぶします。そして西暦249年に、王族の曹爽(そうそう)をクーデターで追い落として政権を握ると中正官の上に、州大中正という州を管轄する中正官を置きます。もちろん、州大中正も中正官も任命するのは司馬懿です。こうして、司馬懿は、魏の内部にあって自分達司馬一族に味方する人材をどんどん登用して魏を弱体化させていきます。司馬懿は九品官人法を王朝のっとりの道具にしたのです。
腐敗する九品官人法は、上級貴族と下級役人を生み出す
それでも魏の時代には、まがりなりにも能力重視で人材が登用されていた、九品官人法ですが、司馬炎(しばえん)が西暦280年に中国を統一すると、もう有能な人材を発掘する必要もなくなり急速に家柄重視の制度になります。
最初に中正官に二品をつけられる一族は、甲種(こうしゅ)、門地二品と呼ばれ、晋王朝の最高の家格になっていきました。しかも、いつの頃からか、甲種の家格を持つ家柄は中正官のランク付けに意見を挟む事が出来るようになり、甲種の家に生まれると自動的に最初の郷品は二品になるというランクの固定化が生まれます。
六朝時代に入ると、九品官人法は機能不全を起こす
晋は八王の乱で弱体化し、都を建業に移して東晋になります。以後、隋王朝による天下統一までの長江以南の歴史を六朝(りくちょう)時代とも言いますが、六朝時代の王朝の権力基盤はいずれも弱く政治は大貴族によって左右される時代が何百年も続きました。
こうして、家柄ではなく能力で人材登用という九品官人法の建前は完全に形骸化してしまい、どんなに頑張っても六品止まりの下級官僚の濁官と最初から二品にランク付けされる上級貴族の清官に官僚は大きく二分されてしまいました。
濁官階級であった西晋の劉毅(りゅうき)は能力ではどうにもならない身分の壁に絶望し、その口惜しさを漢詩に託します。
「上品に寒門(低い家格)無く、下品に勢族(権力者)無し」この嘆きの詩こそが、九品官人法が生み出した答えでした。
三国志ライターkawausoの独り言
清官とは今でいうキャリア官僚でした。濁官で苦労して六品に上った人と、清官で六品から出発した人では、品は同じでも、年齢も違うし、出世のスピードもまるで違います。数年で楽な仕事を次々と歴任して、高い地位に登りつめる清官を何年間もキツイ仕事をこなして、やっと六品の濁官官僚は複雑な感情で見ていた事でしょう。
もっとも、清官でも必ず二品に上れるという保証は無く政変や自分のヘマで出世の道が閉ざされるケースも多くあり、家柄だけ良くて、重要なポストにはつけないボンクラ二品も多く存在してはいました。まあ、それでも生まれで最初から有利な清官は、濁官から見れば羨ましくも妬ましくもあったでしょうね。本日も三国志の話題をご馳走様・・
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