三国志前半最大のライバルは曹操(そうそう)と劉備(りゅうび)だと言って
過言ではありません、いや、それなら曹操とは幼馴染の説もある
袁紹(えんしょう)では?という意見も出てくるでしょう。
しかし、家柄の差故に、常に一定の距離を置いて付き合っていた
曹操と袁紹と違い、劉備には非常に曹操に近い時期がありました。
実際に二人は親友のような蜜月時代がありどちらかと言えば
曹操の方が劉備の才能に惚れていたのです。
※以下の内容は主に、陳寿の三国志 蜀志 先主伝に依拠します。
この記事の目次
呂布に敗れて、劉備が曹操の下に転がり込んで来る・・
劉備は、徐州牧だった頃、放浪中の呂布(りょふ)を匿っていました。
ところが、劉備が袁術(えんじゅつ)と事を構えて小沛に居た時に、
下邳(かひ)で留守番していた呂布は曹豹(そうひょう)の手引きで叛いて、
劉備を襲い、劉備は袁術と呂布の挟み撃ちの形になります。
劉備は、はらわた煮え繰りかえるのを我慢して、呂布とは和睦して、
自身は客将として小沛に常駐して、呂布に徐州牧を譲ります。
しかし、密かに兵を集め、逆襲の準備をしていた劉備は呂布に察知され、
大軍で襲われて勝てず、泣きべそかいて、曹操の元に亡命したのです。
曹操は兵を与えて、劉備の戦いぶりを見る
その頃の曹操は、献帝(けんてい)を迎え、袁紹とはチキンレースを開始する前で
当面は兗州では煮え湯を飲まされた、呂布を討伐したいと考えている頃でした。
そこに劉備が逃げ込んできたので好都合、劉備を豫(よ)州牧とすると、
沛に食糧を送り、劉備の散りぢりになった兵を集めさせています。
兵糧さえあれば食うや食わずの兵は集まってきますから、これで
劉備の兵を補強して、再び呂布を攻めさせています。
劉備は呂布相手には、憎さ一万倍、頼まれなくても復讐しに行きます。
それに対して呂布は名将、高順(こうじゅん)を送りこみます。
劉備は、ゲリラ戦には定評がありますが、あまり兵法を勉強してなく
ちゃんとした将軍には色々な意味で勝てないので苦戦、、
曹操は、さらに夏侯惇(かこうとん)を送りこみますが、高順は、
こちらも撃破、いよいよ曹操自身が乗りこんだので、
さしもの呂布も捕えられ西暦199年に処刑されてしまいます。
ここでの劉備の戦いぶりは、復讐心もありますから、命を惜しまぬ
立派なものだったのでしょう、曹操は評価し劉備を左将軍に任じて
手元に置くようになります。
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輿を供にし、座席も一緒という気色悪い厚遇
左将軍は、前後左右将軍としてお馴染み、後に関羽(かんう)や
黄忠(こうちゅう)、張飛(ちょうひ)、馬超(ばちょう)が与えられた将軍号ですが、
これは天子の前後左右を守る軍を意味し、かなりステータスが高い地位でした。
そればかりではなく、曹操は輿(こし)に乗る時にも、劉備を隣に乗せ、
座る時には、席を共にしたと言われています。
三国志の時代は馬車が主流で人に担がせる輿はまだ珍しいようです。
新しい物が好きな曹操が導入したのでしょうか
それにしても輿には二人で乗れたのか・・疑問です。
一人乗りのイメージがあるので、乗れても体が密着しそうです。
次に席ですが、これは今で言う茣蓙のようなもので、
長方形で一枚の茣蓙に三人が座れました。
こちらは、横並びで座るので、劉備と曹操は正座して、
座っていたと思います。
大の男が二人、正座してぴったりくっついて
座っているのは微笑ましいというより暑苦しいです。
ただ、当時は仲が良いもの同士が席を同じくしていたので、
曹操としては、劉備を重んじているというアピールだったのかも知れません。
曹操暗殺を董承から告げられる劉備
しかし、この頃、献帝の舅の董承(とうしょう)より、
帝の衣服から曹操を討てという密勅が下った事が劉備に告げられます。
人間を慎重に選ぶべき暗殺計画で董承が劉備を選んだのは、
普通に考えれば、劉備を反曹操の人間だと見ていたという事でしょう。
実際、劉備は行動も起こさない代わりに曹操に暗殺計画をチクってもいません。
これは、やはり、曹操を除くべきという陰謀に劉備が加担していると見て
間違いないでしょう。
劉備を片腕と思い、大いに浮かれていた曹操と違い、
劉備は曹操を盟友どころか敵と見なしていたのです。
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匙を落とす劉備、あの名シーンはあった・・
その後、曹操は劉備を食事に誘い、のんびりとした調子で言います。
「天下に人物は私と君だけだ、袁紹のような小僧は数にも入らない」
それを聞いた劉備は、思わず箸と匕(サジ)を落してしまいます。
三国志演義では、ここで都合良く雷が鳴り響き、劉備は雷に驚いた
ふりをしてうずくまりますが、先主伝には、そのような記述はありません。
代わりに裴松之(はいしょうし)が引く華陽国志には次のような記述があります。
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その時、ちょうど雷鳴が鳴り響き、劉備は曹操に言った。
劉備「聖人は、迅雷風烈は必ず変ずと言いましたが良言であります。
一震の威がこれほどの物であろうとは」
劉備の言った言葉はどういう意味なのか?
劉備の言葉は、孔子の論語に通じていないと分りません。
これは論語にある
「斉衰の者を見ては、狎(な)れたりと雖(いえど)も必ず変ず」の
一部で、変ずとは態度を改め敬意を払うという意味です。
孔子は人に対する敬意を失わず、相手が幼馴染や親友のような
親しい間柄でも相手が喪服を着ているような時には馴れ馴れしくせず
しっかりと敬意を払い、空に風雨が吹き荒れ雷が鳴る時には、
正座して天にも敬意を払いました。
劉備はそれに引っ掛けて、
「いやー雷鳴は凄いっすね。思わず箸と匕を落しました。
聖人が敬意を払うのも分かりますよ」
という風に茶化して、その場を取り繕ったのです。
ただ、庶民相手に論語を講釈するには分かりにくいので、
三国志演義のライター達は、雷鳴=箸落す=雷怖いと
話を単純化して、劉備に雷嫌いを演じさせたのでしょう。
しかし、話の分かりやすさでは、華陽国志より、
三国志演義の方が遥かに上手だとは思います。
曹操に暗殺未遂が発覚し、劉備と曹操の蜜月が終わる
劉備は幸運にも、天災と敗戦でボロボロになり、
従兄弟の袁紹の元に逃げようとする袁術(えんじゅつ)を阻止する為に
曹操により朱霊(しゅれい)共々派遣されます。
この時点で劉備は、二度と曹操の下に戻らないと決めていたのでしょう。
袁術を追い散らすと、朱霊を先に帰らせ、自身は下邳に向かって、
徐州刺史に任命された車冑(しゃちゅう)を殺して曹操に反旗を翻すのです。
間も無く、暗殺計画は露見し、首謀者の董承や、
長水校尉の种輯(ちゅうしゅう)将軍の呉子蘭(ごしらん)、
それに王子服(おうしふく)等が一族もろとも誅殺されます。
こうして、曹操と劉備の蜜月は終わり、お互いを滅ぼさずには
置かないという激しい戦いの幕が開きます。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志上級者には、見るまでもない曹操と劉備のつかの間の蜜月ですが、
こうして見ると、曹操が一方的に惚れこんで劉備は最初から醒めていた
という評価がしっくりくると思います。
個人的には、三国志演義の劉備の「雷怖い演技」が本当は論語に由来し
庶民には分かりにくいから変更されたというのが新鮮でした。
不良学生とはいえ、学問はした劉備だから論語位読んだのでしょうが、
演義では、色々な都合でそれをカットされているのも皮肉です。
これがインテリ孔明なら講釈師は面倒でも説明したでしょうが、
やはり劉備であるというのが災いしたんでしょうね。
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