マイナーですまん!袁術に滅ぼされた陳王 劉寵(りゅうちょう)

2016年10月23日


 

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劉備 経歴

 

劉氏と言えば、三国志では劉備(りゅうび)や、劉璋(りゅうしょう)、

劉表(りゅうひょう)劉曄(りゅうよう)劉禅(りゅうぜん)

劉協(りゅうきょう:献帝劉琦(りゅうき)、劉虞(りゅうぐ)など、

メジャーな人々が多くいるイメージです。

しかし、中には劉氏で王族なのに地味すぎて、誰も知らない劉氏もいます。

今回紹介する劉寵(りゅうちょう)もそんな一人です。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも劉寵って誰よ?

劉寵と袁術

 

劉寵は、後漢の二代皇帝、明帝の血筋を引く王族です。

五代前の劉羨(りゅうせん)は明帝の子で有能な人であり、

明帝は豫州の汝南六県を分離してそこに陳という小王国を築いて

劉羨を陳王としました。

 

以後、なんだかんだあり、劉寵は父の劉承(りゅうしょう)を継いで

陳王になります。

 

当時は、一般の郡や県以外にも、漢の王族が治める小王国がありました。

陳以外にも河間国や、安平国、趙国のような劉氏王族が治める国が

広い中国大陸にポツポツと点在していたのです。

 

ただ、これらの王国は規模が小さく、共同して反乱を起こさない限り、

これといった脅威には成り得ませんでした。

 

 

劉寵、名宰相、駱俊を得て善政を敷く

 

劉寵の治めた陳は小国でしたが、宰相に抜擢した会稽郡出身の

駱俊(らくしゅん)が名宰相であり広く民に仁愛を施したので栄えていました。

彼は、黄巾の乱以後に、政情不安で陳に逃げ込んできた避難民10万人を

迎え、子供を産んだ女性には、肉や米を与えて滋養をつけさせるなど

細やかな気遣いをし、陳で生まれた子供には、駱俊の慈悲にあやかり

駱の一文字をつける事が流行した程でした。

 

劉寵は弩の名手であり、黄巾賊も恐れて襲わなかった

李典と于禁、黄巾賊

 

しかし、ここで疑問が湧きます、どうして安全な場所などない筈の

後漢末期の混乱で小国の陳だけには避難民が殺到したのでしょう。

 

それは、劉寵が数千挺も備えた強弩の存在がありました。

劉寵は、強弩の名手で十発撃って十発同じ場所に命中させる腕前、

まさに三国志時代のゴルゴ13と呼べるスナイパーでした。

駱俊の献策で富国強兵に励んだ劉寵は、強弩兵を訓練し黄巾賊が攻めてきたら、

いつでもハリネズミに出来る程に命中精度を高めていたのです。

黄巾賊は、これを恐れて陳には寄りつかず陳は平和が保たれたのでした。

 

なんでも食べちゃう黄巾賊を震え上がらせた劉寵は、

無名とは言え、なかなかの名将と言えるでしょう。

割と野心もあった劉寵、反董卓連合軍にも参加

反董卓軍010

 

単純に名君なだけではなく、劉寵は反董卓(とうたく)連合軍にも参加して、

自慢の強弩兵を率いて豫州(よしゅう)陳郡陽夏(ようか)県まで

兵を出し輔漢(ほかん)大将軍を自称しています。

 

この地点は洛陽に近いので、或いは本気で董卓に挑むつもりだったのか?

しかし、交戦記録が無いという事は、一応兵は出したよという

漢王朝への忠義を立てただけかも知れません。

 

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陳は黄巾賊より100倍性質が悪いアイツに狙われた!

先読み袁術

 

黄巾賊を震え上がらせた劉寵ですが、立地条件には恵まれていませんでした。

そう、寿春で唐突に皇帝を自称した、三国志時代のジャギ様こと、

袁術(えんじゅつ)の支配地である九江(きゅうこう)郡と

汝南(じょなん)郡を仲介して隣接していたのでした。

 

はっきり言って、袁術は黄巾賊の100倍は性質が悪いです。

元々、汝南は汝南袁氏の本拠地で袁術の息がかかっていました。

そこで袁術は、劉寵にこんなお願いをしたのです。

 

「度々の戦で兵糧が足りなくなった、少し融通してくれ」

 

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劉寵、正義感から要求を拒絶

魯粛と袁術

 

しかし、漢の王族の劉寵から見れば、袁術は家来でありながら、

皇帝を自称した不忠者、しかも、この辺りの戦乱の原因は袁術が

袁紹と勢力争いを繰り広げた事に責任があるのです。

 

「あんな男の要求など飲む必要はない断ってしまえ!」

 

劉寵は、袁術の要求を完全に拒絶しました。

 

激怒した袁術は、陳に刺客を送りこみ、劉寵と駱俊を殺す

袁術 伝説 ゆるキャラ

 

要求を無視された袁術は激怒しました。

なんせ、強い者には弱く、弱い者にはめちゃ強い、

your shockな!世紀末弱肉強食社会を象徴する袁術です。

格下相手には、容赦なんかありはしません。

 

「あんな小王国に舐められてたまるか」

と軍勢を出そうとします・・

 

しかし、陳にある数千の強弩兵に寄せ集めの袁術軍が勝てるかどうかは、

微妙なので、弱虫の袁術は部将の張闓(ちょうがい)というものを陳に派遣して、

駱俊と会見させ、酒宴の最中に刺し殺させ、さらに劉寵も刺殺します。

こうして、主君のいなくなった陳に袁術軍は入城し、略奪と虐殺が発生、

陳はたちまち、飢餓状態なり衰えたという事です。

 

劉寵の諡は湣(びん)王です、湣は暗君につけられる諡で

奢りにより国を誤った君子につけられます。

やはり、最後の悪さが諡に影響したのでしょうね。

 

まさに疫病神袁術と関わったばかりに滅んでしまった劉寵と駱俊、

立地条件と袁術の性格を読むのが浅かったですね。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

袁術の刺客に無念にも殺された駱俊の子には駱統(らくとう)がいます。

彼が8歳の時、陳が蹂躙され、彼は父方の一族に連れられて会稽に帰ります。

そこで曹操(そうそう)の上奏により孫権(そんけん)に仕えて内政官僚として

実績を残し、後には三千の弓兵を率いて戦い、孫権の従兄弟の孫輔(そんほ)の

娘を娶る事を許され、病死した凌統(りょうとう)の兵を引き継ぐなど

呉で大活躍しました。

 

父譲りで情けが深く、貧しい時期は自分の食事を減らしてまで、

嫡母や後家になっていた姉に与え恭しく仕えたようです。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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