西涼の馬騰(ばとう)の嫡男として生まれ、無敵の騎馬軍団を率いて、
曹操(そうそう)さえ追いつめた馬超孟起(ばちょうもうき)。
しかし、彼の輝かしい戦歴もここまで、最終的には曹操に敗れて拠点の涼州を落ち
張魯(ちょうろ)の配下となってもトラブル続き、
最期には劉備(りゅうび)を頼って波乱の人生を終えるという
後半は不運と悲劇の二文字が消えない生涯でした。
では、馬超の死後、その子孫達はどうなって行ったのでしょうか?
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この記事の目次
自分の責任とは言え、馬騰を含め多くの一族を失う悲劇
馬超の一族は、関中に基盤を持ち、父の馬騰の時代に繁栄した事で、
かなりの人数になっていました。
その馬騰は曹操の要請で関中を離れて、一族200名と共に鄴に移住します。
これは、度々反乱を繰り返す関中軍閥の勢いを削ぐ曹操の策でした。
馬超はその中で関中に残り、軍閥を維持しますが、曹操が張魯を討伐する
軍勢を起こすと、次は自分達ではないかと疑心暗鬼になり、西暦211年、
かつての父の盟友、韓遂(かんすい)と結託して反乱を起こしました。
最初は優勢であった戦いも、曹操の軍師、賈詡(かく)の離間の計により、
馬超が韓遂と仲違いする事で崩壊します。
曹操は、見せしめとして鄴にいた馬騰を含めた一族200名を誅殺しました。
叛いた馬超が悪いのですが、こうして馬超は多くの一族を失います。
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冀城で再起を図るが失敗し家族を処刑される
馬超は一族を滅ぼされた復讐に燃え、翌年、羌族の兵を集めて隴上で蜂起します。
曹操に一矢報いた馬超は人望があり郡や県のほとんどが馬超に呼応しました。
馬超は冀城に籠った涼州刺史の韋康(いこう)を殺害して冀城を根城にし、
同州の他の城を味方につけ、救援にやってきた夏侯淵(かこうえん)を撃破、
氐族の千万(せんまん)、阿貴(あき)を味方につけ勢力を盛り返します。
しかし、韋康の復讐の為に挙兵した楊阜(ようふ)らの抵抗により
冀城を奪われると城に残っていた馬超の家族は報復で処刑されました。
味方につけた異民族が散ってしまい、再起も難しくなった馬超は
漢中の張魯(ちょうろ)を頼って落ちていきます。
こうして、たった二年の間に馬超は一族、家族の大半を失い、
従兄弟の馬岱(ばたい)と共に、成都を攻めていた劉備(りゅうび)からの
帰順を呼び掛ける手紙に従い、落ち延びる結果になります。
ちなみに有名な張飛と馬超の一騎打ちは三国志演義の創作です。
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劉備の下では、派手な活躍もなく、劉備より先に亡くなる
馬超の威名は成都まで轟いていて、籠城していた劉璋(りゅうしょう)は
馬超が劉備に降ったと知ると、恐れて降伏を決意したと史書にある程です。
こうして馬超は劉備により平西将軍とし、後に劉備が漢中王になると、
左将軍に任命して節を仮しています。
馬超は、生まれ故郷である涼州の付近に駐屯して、
反乱分子が出ないように睨みを効かせています。
西暦221年には、馬超は驃騎将軍になり、涼州牧を兼領して斄郷(りごう)侯に
封じられますが、例えば、漢中攻防戦などには参加したものの目立った功積はありません。
そして、多く一族を失った心労からか、西暦222年、劉備よりも先に、
47年の生涯を閉じてしまいます。
kawauso個人の見解ですが、馬超は、西暦211年、翌212年の戦いで
燃え尽き、それ以後は余生だったように思えます。
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馬超の後は、馬承が継いだ
馬超には、張魯の下にいた時に人質として残した馬秋(ばしゅう)という長男がいました。
しかし、張魯が曹操に降伏した結果、馬秋は殺されます。
ただ、馬超は、劉備の下に来た後にも子が出来たようでそれが馬承(ばしょう)です。
馬超伝によると、馬超は自分の後は従兄弟の馬岱に宗廟を祀らせてくれるよう
遺言していますが、それは守られず馬超の家督は馬承が継ぎ、斄郷侯になります。
どうして馬超が息子ではなく、従兄弟の馬岱に家督を継がせようとしたのか?
本当の理由は分りませんが、遊牧民の習慣である適者相続の原則を
守ろうとしたのかも知れません。
そうならば、馬超は漢族の国家に仕えながら、死ぬ寸前まで遊牧民の
プライドを保ち続けたという事になります。
さて、馬超の後を継いだ馬承ですが、斄郷侯を継いだ以外には、
これという記録がありません。
馬超に後を託された馬岱も、陳倉侯、平北将軍にまで昇りますが、
子孫については不明です。
馬超の娘は劉禅の弟劉理に嫁いだ
馬超には娘もいたようです、名前は分りませんが、
劉備の息子である劉理(りゅうり)という人に嫁ぎました。
劉理は名を奉孝(ほうこう)といい、生意気にも郭嘉と同じです。
劉理は劉禅とは母親が違う、異母兄弟にあたっているようです。
西暦221年、劉備は劉理を梁(りょう)王に封じていますから、
或いは、この時に馬超の娘も嫁いだのかも知れません。
西暦230年、蜀は呉と相談し魏を滅ぼした後の領土分配を話し合いました。
結果、梁が含まれる豫州は呉の領地と取り決めが出来たので、
劉理は梁王から安平王に変更になりました。
劉理は、西暦244年に死去して、、悼王と諡(おくりな)されました。
馬超の娘がいつ亡くなったのかは分りません。
三国志ライターkawausoの独り言
たった2年間で、一族と家族のほとんどを失った馬超、、
大家族に育った彼には、その事実はかなりのショックだったかも知れません。
ただ一人残った従兄弟の馬岱に遺言で触れているのも、
僅かに残った親族の今後を心配しての事かも知れません。
馬超は蜀志、六巻で 関羽、張飛に次いで三番目に触れられており、
最晩年には車騎将軍にまで昇っているので、蜀の柱石になる事を
期待されていたのでしょうが、その寿命は劉備より先に尽きるという
寂しい結末になりました。
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