人間だれしも間違いはするもので、そういう私、FMもこれまでの生涯で行った失敗は数知れません。
誰でも失敗することぐらいはありますがその様相は様々です。
小学生の算数の計算ミス程度ならば、実質的損害は何一つありません。
逆に、社会人がミスして数百万、
数千万に上る損害を出してしまうこともあるので、気をつけねばなりません。
間違いと損害は直結するもので、資本主義的な発想では損害の大きさは金銭的に表され、
その額は間違いの代償と言って良いでしょう。
金額のような数値で表されるような、失敗はその損害は分かりやすいですね。
しかし、時には金額では表せないような大きな過ちも存在します。
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この記事の目次
うっかりミスが大惨事
三国志は歴史書に基づいて、ある程度の憶測を含み歴史として語り継がれています。
現在三国志に関わる文献は数多くありますが、中にはちょっとした間違いを含むものもあります。
こうした間違いは金額では表せませんが、大きな間違いでもあります。
三国志に関わる誤りは、現在ではもはや
『三国志の○○の間違いってもう常識だよね』と言われるような一般化された誤りもあります。
本記事では、この三国志に関わる誤りでもはや一般的と呼ばれているモノを取り上げます。
誤りの中でも、数多くの人物が登場する三国志では人物名に誤りがある場合があり、
今回はそうしたケースをピックアップしました。
劉備に仕えた徐庶の名前
巷では徐庶 単福(じょしょ ぜんふく)という名で知られている徐庶(じょしょ)は、
一時期、劉備(りゅうび)に仕えた後、曹操(そうそう)に仕えました。
徐庶(じょしょ)は、劉備(りゅうび)に仕え軍師として活躍し、
軍事力で勝る曹操(そうそう)軍を知略と兵法で圧倒しました。
その能力に目を付けた曹操(そうそう)に母親を人質にされ、
やむを得ず曹操(そうそう)側に降ったという悲しい経歴を持ちます。
さて、この徐庶(じょしょ)ですが、彼の名前は実は誤りであることが知られています。
本当の名は、徐庶 (じょしょ)です。なぜ、このような誤りが起こったのでしょうか。
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徐庶の名前はなぜ間違えられた?
徐庶(じょしょ)に関する記載は、蜀書『諸葛亮伝』の『魏略』に載っています。
そこには、以下のような一節があります。
「徐庶(じょしょ)の初めの名は福と言って、もともと単家の出身でした。」
単家とは「貧乏で卑い身分」という意味です。
三国志演義の著者、羅貫中(らかんちゅう)は「単家」を「単という姓の家」の出身と読み違えています。
そのため、初めの名と組み合わせた「単福」という姓名が完成してしまいました。
こうした経緯で、徐庶 単福(じょしょ たんふく)が誕生したのでした。
本来の名を徐福(じょふく)、元の字(あざな)は元直(げんちょく)です。
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美人姉妹の御父上は・・・
三国志と言えば、赤壁の戦いです。
事の発端は、魏が呉に攻め入らんとしている場面で、
呉は「いっそ降伏すれば良いのかな・・・」という気の迷いを出し始めた時に、孔明(こうめい)が
小喬(しょうきょう)の二人を迎えたいといってたので、降伏は簡単です!」
と呉の周瑜(しゅうゆ)に伝えました。
大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)はそれぞれ
両者とも怒り、結果として開戦したわけですね。
呉を動かす孔明(こうめい)の作戦ですが、”銅雀台の賦”にて確かにそのように詠われています。
さて、そんな争いの渦中にいる大喬(だいきょう)と小喬(しょうきょう)ですが、
そんな二人の御父上もたいそうご立腹のことでしょう。と考えて、ふと思うのは、
「あれ、この二人の御父上はどなたでしたっけ?」
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喬国老と橋玄
御父上がどうとか、そんなことどうでもよさそうですが、なんとなく気になります。
天下の美女であるこの二人の御父上にあたる方は喬国老(きょうこくろう)
又は、喬公(きょうこう)という人物です。
この「喬公」ですが、『呉書 周瑜伝』では「橋公」と記載されており、
こちらが正しいとされています。
そういえば、橋公(きょうこう)と言えば、
何か曹操(そうそう)と接点のある人物がいたような気がします。
曹操(そうそう)が名を挙げるよりも前に、
その才能や将来性を高く評価していた橋玄 公祖(きょうげん こうそ)という人物がいます。
曹操(そうそう)の才を見抜いた橋玄(きょうげん)は、
曹操(そうそう)を人物鑑定士、許子将(きょししょう)に会わせ、そこから全てが始まったと言えます。
ちなみに、三国志演義ではこの二人は同一人物という設定にしています。ということは、
「橋公(きょうこう)と橋玄(きょうげん)は同一人物だったのか」
不意にこんな考えがよぎりますが、そんなことはありません。
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喬国老と橋玄はなぜ間違われる?
実際、正史ではこの二人は別人です。
しかし、どういうわけかこの二人はしばしば混同されます。
三国志演義で同一人物としてしまったためでしょうか?
憶測でしかありませんが・・・
------FMの考察---------
曹操(そうそう)は、”銅雀台の賦”で「絶世の美女を手に入れたい」と自身の願望を述べているようで、
何か裏があるかのように感じられます。
そこで少し考えてみると、曹操(そうそう)の立場から見れば、
呉の孫権(そんけん)達が美人姉妹を力で奪ったように見えます。
喬公(きょうこう)と橋玄(きょうげん)が同一人物であると仮定すると…
曹操(そうそう)は自信を評価してくれた人物の娘を保護しようと動いているように見えます。
曹操(そうそう)ファンからすれば、
「打ち首多数+ルール厳守でちょっと冷酷に見えるけれども、心までは悪魔に売り渡していないゼ!」
みたいな曹操(そうそう)像が見えます。
なんとなく辻褄が合っているように見えてしまい、
また三国志演義の設定も拍車をかけ、このイメージがすんなり入ってきます。
------考察終わり---------
重ねて述べますが、橋公(きょうこう)と橋玄(きょうげん)は別人です。
曹操(そうそう)は”銅雀台の賦”で「絶世の美女を手に入れたい」とは己の本心かもしれません。
謀反した魏延を食い止めたのは・・・
三国志終盤、蜀の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は漢室再興を目指し、
魏を打たんと北伐を行っている最中、志半ばでその生を終えます。孔明(こうめい)の死後、
魏延(ぎえん)を残して蜀軍は、引き上げていきます。
怒った魏延(ぎえん)は追撃しますが、その侵攻を阻まれます。その侵攻を阻んだものは・・・。
魏延(ぎえん)「ぬぅ! 邪魔するな! …えーと…」
何平(かへい)「魏延(ぎえん)よ。この何平(かへい)が貴様を食い止める故、
ここから先には進めんぞ。おとなしく投降せよ。」
魏延(ぎえん)「(・・・そうか、何平か)何平(かへい)よ。
邪魔立てするならば、貴様も死ぬことになるぞ。」
何平(かへい)「魏延(ぎえん)に従う兵達よ! 魏延(ぎえん)の行動は蜀に対する反乱だぞ。
魏延(ぎえん)に付き従うお前達の行動も謀反以外の何者でもない。
事が知れれば、蜀にいるお前たちの家族も罪に問われるぞ。今なら間に合う、投降せよ。」
魏延(ぎえん)「・・・ちょっと待ってくれ。よく考えたら、何平(かへい)って誰だ?」
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何平って誰・・・?
小説の三国志演義では、この場面でいきなり何平(かへい)という人物が現れます。
それ以前も、それ以降の物語にも一度もこのような人物は現われません。どういうことなのでしょう。
実はここで突然現れた何平(かへい)は、王平(おうへい)という蜀の武将を指しています。
王平(おうへい)はそれまでの物語でも登場しています。
でも、全然字が違いますよね?なぜこのような誤り(?)が起こったのでしょうか。
これには王平(おうへい)の過去が関わっています。
最大の原因は、幼少期の王平(おうへい)が母方の何氏(かし)に養われていたためです。
後に姓を「王」に直し、王平(おうへい)となりました。
『蜀書』魏延伝もこの時の王平(おうへい)を何平(かへい)として記載しています。
恐らく、陳寿(ちんじゅ)が王平(おうへい)の初姓を誤って用いてしまい、
それに気がつかず羅貫中(らかんちゅう)が
そのまま用いてしまったことによる誤植であると考えられます。
坂口 和澄 著 : 全貌三国志演義 英雄百年の興亡、株式会社三才ブックス(2011)
渡辺義浩 著、佐藤隆信 発行、『三国志ナビ』、株式会社新潮社(2014)
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三国志ライターFMの独り言
間違いは誰にでもありますが、なるべく避けたいものですね。
失敗しても、自身も損するし、周りも損します。
そうした意味では、失敗などせず、順風満帆に行くのが望ましいですね。
また、今回記事で示したように、現代一般に販売されている三国志関連の本にも間違いはあります。
間違いであってもそれがあるが故に三国志は興味深く、より濃い話になっていくように思えます。
かくいう私は当サイトでの記事の間違いを先日は閲覧者に指摘される始末です。
はじ三閲覧者の方には誤った記事を読ませてしまい大変申し訳ありませんでした。
以後は気を引き締めていきたいです。
今後も精進していきたいと思いますので、宜しくお願い致します。
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