妻が13人もいた曹操が一番愛した女性は誰だったの?

2017年3月9日


 

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英雄、色を好むと言いますが、曹操もご多分には漏れませんで、

13名の妻を持ち子供は男女合わせて32名という艶福(えんぷく)家でした。

平和な時代の権力者なら100名子供がいても珍しくはありませんが、

生涯、戦争ばっかりやって、これだけの成績を残すのですから曹操という人は、

時間の使い方が相当に上手だったのでしょう。

では、そんな曹操が一番、愛した女性とは、誰だったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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丁夫人、卞夫人、環夫人の3名が本命

 

いかに妻が13名いると言っても、平等ではなく身分も重要度も違います。

また子供を産んだか、その子供は男か女かでも地位と立場に違いがあり、

それを踏まえると、曹操が特に寵愛したのは丁(てい)夫人と卞(べん)夫人と

環(かん)夫人に絞られます。

それでは、3名の夫人の曹操との親密さを検証しましょう。

 

曹操の嫡男を育てた丁夫人

 

丁夫人は、名門の出の女性らしく、曹操の最初の正室でした。

曹操は、それ以前から劉夫人という女性がいましたが側室だったようです。

子供が生まれない丁夫人でしたが劉夫人が病で亡くなり、その遺児を預かり

養育する事になりました、その子が嫡男の曹昂(そうこう)です。

 

このような事は当時、珍しくは無いのですが、しかし我が子がないまま、

他の夫人から預かった遺児を育てる事には心理的葛藤もあった事でしょう。

ですが、曹昂と丁夫人の仲は良く、実の子のように大事にしたようです。

そのままなら、この曹昂が曹家の後継者だったのですが西暦197年、

曹昂は、曹操について宛の張繍(ちょうしゅう)に叛かれた時、

父を庇って自分の馬を与え、その為に逃げきれず戦死しました。

 

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丁夫人亡き後の曹家を支えた卞夫人

 

曹昂の死によって、丁夫人は曹操を責めるようになり、やがて別居し関係は崩壊、

曹操は丁夫人と離婚して途方に暮れますが、その後に夫人に昇格したのが卞夫人でした。

彼女は、芸妓の出身でしたが、よく分った人で、曹操が次々連れてくる女達に

表立って嫉妬の念も見せず、その子供達も含めて、全て我が子同然に扱いました。

彼女が生きている間、曹家の後宮では、大きなもめ事は起きていません。

 

家が潰れるのは、大体、後宮が揉める事が大きな原因ですから、

曹操の覇業は卞夫人の献身なしにはあり得ない事でした。

子供は、曹丕(そうひ)曹彰(そうしょう)曹植(そうしょく)

曹熊(そうゆう)等がいて、曹丕は曹操の後を継ぎ、

曹植は曹丕と後継者の位を争うなどいずれも優秀でした。

 

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子供を曹操に寵愛された環夫人

 

環夫人は、正室にはなれず、側室のままでした。

徐州の出身で、曹操が徐州に侵攻した時に、土地と財産の保全と引き換えに

人身御供として差し出された可能性があります。

可哀想な境遇ですが、曹操には愛され、曹沖(そうちゅう)、曹宇(そうう)、

曹據(そうきょ)という男児に恵まれました。

 

曹操は、環夫人の子供を寵愛し、特別な字を与えています。

例えば、曹沖の字は倉舒(そうじょ)と言いましたが、これは中国伝説上の帝

黄帝の孫にあたる帝顓頊(てい・せんぎょく)の子供の八子の一人である倉舒から取られ、

同じく曹宇の字の彭祖(ほうそ)は帝顓頊の玄孫で700歳を超えて生きた

長寿の人物でした。

 

この中でも曹沖は、少年時代から聡明な人として知られ、長らく曹操の後継者の

有力株でしたが、14歳で死去、曹操は嘆き悲しんでいます。

 

曹丕は、後に曹沖が生きていれば、自分に後継者の目は無かったと述懐し

どれだけ曹操が曹沖を溺愛していたかが窺えます。

 

ただ、環夫人は、万事に控えめで積極的に権力を狙っておらず、

息子達も同様であった為に、曹丕と競合する事はなく曹丕も即位後、

彼女に環太妃の称号を贈っています。

 

総合的に見て、曹操が一番愛したのは丁夫人

 

甲乙つけがたい3名ですが、それでも一番、曹操が愛した女性と言えば、

やはり最初の正室であった丁夫人ではないかと思います。

その理由は、彼女だけは、曹操が自ら追い関係修復を考えた唯一の人だからです。

 

曹昂の戦死には、曹操に大きな非がありました、それは曹操が宛の張繍からは

亡兄の妻に当たる未亡人の鄒(すう)氏を権力をかさに奪って関係を持ち、

それを契機に張繍が叛く事になったからです。

 

「曹操さえ、火遊びをしなければ、曹昂は死ななくて済んだ」その無念の想いが

激しい曹操への恨みになり、別居という選択を丁夫人に取らせます。

しかし、女性に不自由せず、去る者は追わずの曹操は、この時ばかりは未練があり

自ら丁夫人を迎えに行き、よりを戻してくれと懇願します。

 

これは男性優位の三国志の時代の社会では異例の事です。

ところが、それでも丁夫人は帰らず、曹操も諦めてしまうのです。

 

晩年に、つぶやいた唯一の後悔が丁夫人の事だった

 

曹操は善くも悪くも未来志向です、息子が死んだのは悲しいが、泣いた所で

過ちは無かった事にはならないし、曹昂も帰ってこないと割り切ります。

それでも、晩年に人生を振り返って、こう述懐します。

 

「私は自分の人生を後悔していない、だが一つだけ心残りがある

もし、あの世というものがあって、子脩(ししゅう)が私の母はどこですか?と

聞いてきたなら、どう答えたらいいだろう」

 

子脩とは曹昂の字です、先にあの世に行った息子が私に母の安否を尋ねても

人生が別々になった私には、答えてやる事が出来ないと悔いているのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

人間、人生の最期には、本当に大事な事を思い起こすと言います。

行きつく暇も無い怒涛の人生を送った曹操が、自分の歩んだ道を振り返った時

彼の心に去来したのは、振り切ったつもりだった丁夫人の姿だったのです。

そう考えると、曹操が一番愛した女性は、丁夫人だったと言えるのでは

ないでしょうか?

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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