曹操の挙兵時代から支えてきた夏侯惇(かこうとん)や曹操の親衛隊として鉄壁の守りを強いた許褚(きょちょ)、関羽を討ち取るために必死の決意で挑んだ龐徳(ほうとく)など、多くの優秀な武将達を配下にしていた魏の曹家。では上記の武将達の二代目も優秀な武将達だったのでしょうか。今回は夏侯惇、許褚、龐徳の息子達をピックアップしてご紹介したいと思います。
この記事の目次
夏侯惇(かこうとん)の息子は金の亡者だった!?
夏侯惇(かこうとん)。曹操が挙兵した当初から付き従ってきた魏の宿将と言える武将です。夏侯惇と同じく曹操の初期から付き従ってきた夏侯淵(かこうえん)の息子達は、優秀な武将として知られる三国志のファンなら、一度は聞いたことのある夏侯覇(かこうは)などの武将達が排出されております。
このように優秀な武将を輩出している夏侯淵の息子ですが、夏侯惇の息子は優秀な武将だったのでしょうか。残念ながら夏侯惇の息子はポンコツでした。夏侯惇の息子は7人おりましたが、正史三国志に記載がないことから大した働きをした人物ではないのでしょう。
しかしこの7人の息子の次男坊で夏侯楙(かこうぼう)という人物は、正史三国志に記載が、夏侯淵の息子達のような勇将と言える人ではありませんでした。でも文官として活躍した人物ではないのと思う方もいるかもしれませんが、文官としての能力もありませんでした。
夏侯楙は金儲けが好きでいつもギャンブルをして儲けたり、金をどうやって増やすことができのかばかり考えていたそうです。父・夏侯惇の片鱗すら持っていない夏侯楙ですが、魏で重要な地位に就任することになるのです。文官・武将としての能力が無いのになぜ夏侯楙は重要な地位に就任できたのか。それは曹操の娘を夏侯楙が嫁にしており、魏の初代皇帝・曹丕(そうひ)から可愛がられていた為、能力がないにも関わらず長安(ちょうあん)一帯を任せられる重要な役職に、就任することになるのです。この夏侯楙がいかにポンコツであったのかをエピソードが残っているので、ご紹介しましょう。
曹丕は夏侯楙と幼い頃から仲が良かったことや曹操の娘を奥さんにしていた事から、曹丕が魏の皇帝に就任した際、長安一帯を夏侯楙に任せることにします。だが曹丕が亡くなると夏侯楙の待遇が変化します。曹丕の跡を継いで曹叡(そうえい)が皇帝に就任すると蜀軍が活発に軍事行動を開始。蜀軍は長安を陥落させる為、魏・蜀国境に出陣してきます。曹叡は魏の国土を守るために曹真(そうしん)や張郃(ちょうこう)などの勇将を蜀軍迎撃へ向かわせるとともに曹叡も長安まで向かいます。
曹叡は夏侯楙が武に能力がない事と金儲けしかできないことを知って、夏侯楙を長安一帯の守備の役目をやめさせてしまいます。蜀の将軍・魏延(ぎえん)は孔明へ「夏侯楙はポンコツでビビリだから、私に一万ほどの軍勢を与えて長安へ向かえば、夏侯楙はビビって長安から逃亡して簡単に陥落する事ができるでしょう。」と進言。夏侯楙はこのように敵国の将軍にも知られるほどポンコツでありました。夏侯惇が勇将で他国にも知れ渡っていたにも関わらず、息子はポンコツであった一例と言えるでしょう。
軍の法律を引き締めるための犠牲者となった許褚の息子:許儀(きょぎ)
曹操の親衛隊長としてその身を犠牲にしてあまたの戦で曹操を守ってきた許褚。曹叡は許褚の功績を称えて息子の許儀(きょぎ)に侯の位を与えて優遇します。こうして許儀は魏の国内で重きを成していくことになります。許儀は鍾会(しょうかい)の部下として蜀征伐戦に参加。
許儀は鍾会軍の先鋒として出陣し鍾会から蜀の桟道を修理するように命令を受け、一生懸命桟道を修理しながら行軍路を整備していきます。鍾会は許儀の整備した蜀の桟道を行軍している途中、馬の片足が桟道を突き抜けて落ちてしまいます。鍾会は許儀がしっかりと桟道を整備していないことに激怒して、許儀を呼びつけて殺害してしまいます。
鍾会の軍勢に付き従っていた諸将は大いに恐怖して、軍律を重んじるようになったそうです。正史三国志には許儀の記録は鍾会に殺害されたとのみ記され、許儀が武略に富んだ武将であったのかどうかさえ不明です。もし許儀が桟道をしっかりと整備していれば、蜀征伐戦で力を発揮していたのではないかと考えると非常に無念な最後を遂げてしまったのではないのでしょうか。能力が分からないまま亡くなった可哀想な犠牲者と言えるでしょう。
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関羽の一族を血祭りにあげて、父の無念を晴らした:龐会(ほうかい)
馬超の武将として勇名をあげた龐徳(ほうとく)。
曹操軍に帰参した後は樊城(はんじょう)を攻撃してきた関羽を討伐するため、必死に覚悟で迎撃戦に赴きますが、関羽に討ち取られてしまいます。関羽に討ち取られてしまった龐徳には息子がおりました。息子の名前は龐会(ほうかい)と言います。
龐会は父の復讐を心にしまったまま年月を重ねていきます。龐会は父・龐徳の功績によって侯の位を与えられた後功績を積み重ねていき、諸葛誕(しょかつたん)の部下として活躍。龐会は諸葛誕が反乱を起こすと諸葛誕に付き従う事をよしとせず、寿春城の城門を打ち破って逃亡します。
当時魏の皇帝であった曹髦(そうぼう)は龐会の忠誠心を褒め称えて、位を挙げる事にします。こうして魏の国内に龐会の名前は轟くことになります。その後龐会は蜀征伐戦に参加。龐会は鍾会率いる軍勢に参加して蜀軍と各地で激闘を繰り広げていくことに。そして鄧艾(とうがい)率いる別働隊が蜀の首都・成都に接近したことによって、蜀の皇帝・劉禅(りゅうぜん)が降伏。
こうして蜀は滅亡することになります。成都に入城した鍾会は鄧艾を無実の罪で洛陽(らくよう)へ送った後、蜀の大将軍であった姜維(きょうい)と手を組んで魏に対して反乱を起こします。しかしこの反乱は魏軍の将校達の反感を買って将校達が鍾会達に反乱を起こします。成都城内は鍾会軍と魏の将校軍と激しい争いがあり大混乱しておりました。この混乱の中龐会は父を殺害した関羽の一族である関彝(かんい)を血祭りにあげて、父の復讐を達成。龐会は45年以上かけて龐徳を殺した関羽一族を復讐する目標を捨てずに、凄まじい執念を有していた武将と言えるでしょう。才能も父龐徳に似ており、武略に優れていた事も諸葛誕の反乱に加担しないで、寿春城の城門を突破していることからも明らかであり、魏の二世武将の中では珍しく優秀な武将と言えるのではないのでしょうか。
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三国志ライター黒田レンの独り言
今回は夏侯惇・許褚・龐徳の二世武将に光を当ててご紹介しました。二世武将の特徴として極端ですが、優秀な武将やポンコツなのかはっきりと明暗が分かれてしまいます。意外と普通の能力を持った人物がいないのが不思議ですが・・・・・。
なぜ二世武将はくっきりと明暗が分かれてしまうのでしょうか。その原因は父親が凄かったことに起因していると言えるでしょう。父親が凄ければどうしても二世武将達は、周囲から期待が寄せられてしまいますから半端じゃない重圧を受けてしまうでしょう。そして周囲からの重圧を跳ね除けて研鑽を積んだ二世武将達は、歴史に名前を残すほど優秀な武将や文官と言える人物が多い傾向にあるように思えるのはレンだけでしょうか。
参考 新人物文庫 三国志それからの系譜 坂口和澄著など
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