司馬仲達の次男として誕生した司馬昭。司馬昭は父が亡くなり、兄司馬師が司馬家の棟梁となると彼を支えて、司馬家の為に働きます。
司馬昭は司馬師が亡くなると司馬家の棟梁に君臨し、司馬家の勢力拡大に努め、彼の息子・司馬炎の時代に三国時代が終わりを告げます。そんな司馬昭ですが何が原因で亡くなったのでしょうか。また司馬昭は亡くなる時に今後の中国を命運を左右する大きな決断を行っています。今回は司馬昭の死因と大きな決断についてご紹介しましょう。
司馬昭倒れる!?
司馬昭は司馬家の当主に君臨すると魏の皇帝・曹髦を排除し、自らが操りやすい新皇帝を擁立し、司馬家の権力を盤石なものにします。また司馬昭は反司馬家の勢力達を次々と倒すことに成功。その結果、魏において司馬家に逆らう者がいなくなります。
さらに対外的には魏の宿敵で劉備や諸葛孔明、関羽、張飛らが建国した蜀を滅亡させます。三国時代は蜀を滅亡させた事で三国時代のバランスが崩れ、中華の天下統一への道が開かれます。司馬昭はこれらの功績が認められ、魏の皇帝から晋公の爵位をもらい、大きな領土をもらい絶頂期にいました。しかし司馬昭は晋公に就任した翌年、病にかかり倒れてしまいます。
司馬昭が行った大きな決断とは
司馬昭は病にかかって倒れてしまい、その後回復することなく亡くなってしまいます。彼は死の間際に中国の歴史を左右する大きな決断を行います。それは自分の跡を継ぐ者を決めることです。
袁紹や劉表は後継者をしっかりと決めなかった為、国を失うことになります。また孫呉の英雄・孫権も晩年後継者問題に悩まされることに。
さらに三国志の天才・曹操も曹丕と曹植どちらを自分の後継者にするか迷いに迷ってついに曹丕を自分の後継として決定します。このように後継者問題は非常に繊細な問題で、後継者の選択を間違えると国や今まで築いてきた権力が無くなる可能性があります。さて司馬昭は後継者問題に悩まされていたのでしょうか。司馬昭も曹操のように自分の後継を誰にするか迷っていました。
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司馬昭の本音と建前
司馬昭は自分の中で後継者を決めていたようです。ここでの司馬昭の決断がその後の中華の様相を大きく変化させることになるのです。
司馬昭は兄・司馬師を慕っており、自分が司馬家の家を継ぐのはおかしいと考えていました。そして自分の死期が近づいてきた時、
本来司馬昭の地位に居るべき兄の子・司馬攸に跡を継がせようと考えていたようです。上記が司馬昭の本音でした。
司馬昭は司馬攸を後継者にするため側近の賈充や何曾らに相談。しかし賈充ら重臣達は「古来から長男が家を継ぐと決まっています。この習慣を崩すのはよくないでしょう。」と反対。何曾は司馬昭へ「司馬炎は優れた人材で、面相も尋常ではありません。この人を上に頂けば必ず天下統一が出来ると思います。」などといって司馬昭の意見に反論します。
司馬昭は病だったこともあり、彼らの意見に反対する気力を持つことができず、彼らの重臣達の意見を聞いて司馬炎を後継者にするのでした。
司馬昭の死因は結局何なの!?
司馬昭は後継者を司馬炎に決めた後、亡くなります。司馬昭は死後文帝と諡を受けることになります。さて司馬昭の死因は一体何なのでしょう。それは中風です。中風とは、脳卒中の後に発生する言語障害や身体の不自由で、主に下半身不随を意味します。原因は生活習慣病で、塩分の取りすぎや酒量が増えるなどで肥満してくる事により血管が破れやすくなって起こります。
司馬昭は激務で睡眠不足と不規則な生活デスクワークの運動不足と食生活の偏りに加齢が加わり中風になったのでしょう。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は司馬昭の決断と死因をご紹介しました。司馬昭の事をもっと知りたいという方はレンが書いた記事を読んでみてください。レンが書いた記事はこちらになります。
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