魏呉蜀の三国の中で十州を支配下に収め、最強の軍事力と経済力を誇り、
事実上、晋王朝の母体になったのが魏王朝です。
劉備、孫権に比較しても、非常な先見性を発揮して国家のグラウンドデザインを
死去するまでに完成させていた乱世の奸雄、曹操。
そんな彼が心血を注いでいたのが、44万人と言われる魏軍でした。
今回は三国志演義を見ただけでは分からない魏軍の全貌を分かりやすく、
解説してみようと思います。
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この記事の目次
魏軍はどのような編成になっていたのか?
魏の軍隊は大きく分けて二つの軍団から構成されていました。
一つは、帝都を守る中軍で15万人という規模を保有しています。
もう一つは外軍といい、支配地域十州の主要拠点に置きました。
また、同時に曹操は外軍として各地の太守、刺史に同時に将軍や、
校尉の肩書を与えて個別に軍隊を指揮する権限を与えます。
外軍は、かつて司馬朗が後漢の郡国兵を復活させる提言を行ったのが
ヒントになったものです。
曹操は当初、司馬朗の提言を
「太守や刺史の独立を招く恐れがあり次期尚早」と考えて
採用しませんでしたが、将軍や校尉に太守や刺史を兼務させるという
変則的な方法で、こちらを採用する事になりました。
中軍の内訳
中軍は、後漢以来の近衛兵である南軍と北軍、五校等で構成されていましたが、
曹操は、さらに曹操個人を守る親衛隊として組織した、武衛将軍、
中塁将軍、中堅将軍という組織を新しい近衛兵として起きました。
元々、曹操を守る旗本のような立場だった武衛、中塁、中堅の軍は、
魏が大きくなり帝国となると中軍に組み込まれていきます。
それ以外にも、驍騎将軍や游撃将軍も中軍に組み込まれています。
武衛将軍として有名なのが戦死した典韋を引き継いで
曹操のボディーガードになった許褚です。
中軍を指揮監督する中領軍、中護軍
中軍はただ帝都と皇帝を守るだけではなく、必要とあらば出征もしました。
例えば西暦229年、蜀の諸葛亮が陳倉を包囲すると、曹叡は中軍から、
南北軍30000と虎賁、武衛のような親衛隊を派遣して張郃を援護しています。
こちらの中軍を指揮するのは、中領軍と中護軍という役職でした。
中領軍は武衛や五校というような部隊を指揮し、中領軍は従軍する諸将を監督
武官の選挙を任務としています。
この二つの役職は、ただ中軍を指揮するだけではなく部下に長史や司馬を持ち
独立した部隊を率いる事が出来ました。
中領軍と中護軍は、皇帝や最高権力者が中軍を率いて出征する時は、
その参謀や指揮官の役割を担い、通常も皇帝の最高顧問として高い地位にあります。
元々は、曹操が置いた領軍や護軍を発展させたポストであり、
同位の将軍には、護軍将軍、領軍将軍がありました。
曹丕が設置した鎮軍大将軍と撫軍大将軍
中軍の指揮官には、さらに臨時で鎮軍大将軍と撫軍大将軍がありました。
これを設置したのは、魏の文帝、曹丕で初代の鎮軍大将軍は、陳羣、
撫軍大将軍は司馬懿が任命されています。
鎮軍大将軍は曹丕の親征に付き従い、撫軍大将軍は許昌で補給を担当し、
後方の軍を指揮監督する役割を担っていました。
こちらも純粋に将軍というポストだけではなく、撫軍大将軍は仮の尚書として
宮廷の事務を取り仕切り、鎮軍大将軍は皇帝の下で尚書の役割を受けます。
両方とも監察権は仮節で吹鼓(軍楽隊)と中軍から歩騎600が
親衛隊として与えられていました。
外軍の内訳
魏は外敵の侵入に備えて、荊州、揚州、青州、徐州、幽州、雍州、并州、
豫州、涼州の各地域に外軍、地方軍を配置していました。
外軍を構成するのは、各地に駐屯している前後左右将軍のような
高位の将軍位を持つ地方官や、征蜀護軍、征呉護軍という特殊な任務を持つ軍、
それに、刺史や郡太守の率いる軍隊でした。
これらの外軍は、東西南北の名称を持つ四征将軍や、その上位のランクの
大将軍、車騎将軍、驃騎将軍が都督として管轄しています。
都督の名称は
①担当する州のエリア名と②節のランクと③将軍位で決まります。
例えばエリアが揚州であれば、
①都督揚州②仮節(諸軍事)③征東将軍などと表記されます。
都督はエリア内の諸軍を統括し、部下を処刑できる3ランクの節を持つ
強大な権限を持っています。
都督には軍師が派遣され、諸軍を監察するとともに参謀や指揮官として
活動するほかに、援軍として送られた中軍の部隊や異民族で編成された
騎兵部隊なども指揮下に加えて戦いました。
外軍はどこに駐屯していたのか?
外軍を統括する都督には、地域によってその戦力と重要性に差がありました。
例えば河北の都督は、都督河北仮節諸軍事鎮北将軍などと言い、
河北の幽州や冀州の軍事を担当し、北方の遊牧民や幽州の東方を支配する、
遼東公孫氏や、さらに東の高句麗の勢力に対抗して置かれました。
※画像の黒丸の部分
烏丸、鮮卑、匈奴というような北方遊牧民を管理する仕事でもありましたが
このエリアは呉や蜀のような積極的な攻勢に転じる敵がいないので、
他の都督に比較すると比較的閑職と呼ばれるポストでした。
逆に、対呉の最前線だった揚州方面軍は、216年に伏波将軍の夏侯惇が
26個軍を率いて居巣に駐屯したのを始まりとし、その後は鎮東将軍、
征東将軍が都督揚州諸軍事として駐屯し続け、何度も争奪の舞台になった
合肥なども管轄エリアに入っていました。
※画像黄丸の部分
その為に曹魏王朝は、特に精鋭部隊と有能な将軍をポストに宛てますが
強大な軍団は司馬氏の専横に対する蜂起の温床になり、
司馬氏としては、忌々しいポストでしたが、呉に対する備えを考えると
安易に権力分散や、精鋭の削減も出来ない痛し痒しのエリアだったのです。
三国志演義ファンにお馴染みの魏の対蜀戦線は、
擁:涼諸軍事が担当していました。
※画像緑丸の部分
当初は名将、夏侯淵が潼関の戦いで曹操に叛いた馬超と韓遂を討つ時に
駐屯したのが始まりで、定軍山で夏侯淵が討たれた後、曹操が漢中を放棄すると
王族の曹真が都督仮節擁涼諸軍事鎮西将軍として赴任しました。
曹真の死後は、司馬懿が都督仮節擁涼諸軍事大将軍として
諸葛亮の北伐に対抗する事になります。
招集が掛かった場合
外軍に召集が掛かると、都督諸軍事が駐屯している場所に向けて、
管轄エリア内の郡太守、刺史、護軍、異民族の軍隊などが終結しました。
例えば桓嘉という人物は青州の楽安の太守でしたが、西暦252年の
東輿の戦いに出征して戦死しています。
この時、桓嘉は魏の征東大将軍、都督揚州諸軍事だった諸葛誕の配下として
呉の諸葛恪と戦っていた事になります。
魏軍は、陽動作戦も込みで、15万という大軍を動員し、
豫州諸軍事王昶、荊州諸軍事毌丘倹も参戦していましたが、
結果は諸葛誕の敗北という形で幕を閉じました。
三国志ライターkawausoの独り言
以上、魏帝国の軍隊、中軍と外軍、それに付随する役職などについて
簡単に解説してみました。
魏は呉蜀のみではなく遼東公孫氏や、高句麗などにも対応していたので
軍隊の動きが複雑なのですが、基本は中軍と外軍に別れていて、
ある程度の裁量権を持って活動していた事が分かりますね。
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