公孫瓚は朝鮮を支配した公孫度と仲が良かったの?

2018年7月26日


 

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公孫瓚

 

 

北方の雄、公孫瓚(こうそんさん)、幽州、青州、冀州(きしゅう)兗州(えんしゅう)に勢力を伸ばした群雄ですが、その公孫瓚について、kawausoは少し気になる事があります。何が気になるかというと、幽州の後ろの方の小勢力の遼東公孫氏(りょうとうこうそんし)です。

 

同じ公孫を名乗っている両者は血縁関係があるのか?

さらに関係があるとすれば、どの程度の繋がりなのでしょうか?

 

今回は、朝鮮半島と北方四州をそれぞれ支配した公孫瓚と公孫度(こうそんど)を考えます。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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同じ公孫氏でも両者は無関係

公孫瓚

 

 

まず、公孫瓚と公孫度は同族であるかどうかを考えます。公孫瓚の出身地は、遼西の令支(れいし)で、公孫度の出身地は遼東襄平(じょうへい)です。両方とも幽州に含まれているので、一見、同族かと思いますが、実際には無関係の可能性が高いようです。

 

それは、公孫瓚が二千石の官僚の家に生まれたのに対し、公孫度の父、公孫延(こうそんえん)は吏を避けて玄菟郡(げんとぐん)に移住した比較的に身分の低い家の生まれであるからです。また、公孫氏という氏についても諸侯の孫の呼称が氏になったもので諸侯の孫の家柄であれば、こう呼ばれるという位のものです。

 

例えば商君の変法で有名な公孫軮(こうそんおう)は、衛の公族出身の為に本来、衛軮(えいおう)であるのを公孫軮と呼ばれましたし、春秋時代の(てい)の宰相、子産(しさん)は氏は国で諱が(きょう)なので国僑ですが、祖父が鄭の穆公(ぼくこう)なので公孫僑と呼ばれたりしました。

 

このように両者は同じく公孫氏ですが、血縁は無さそうなのです。

 

 

 



国境を接しながら公孫瓚と公孫度が争わない理由は?

公孫度が争わない理由

 

 

さて、同族ではないとすると公孫瓚と公孫度は赤の他人という事になります。国境を接して幽州を折半している形の両者は、どうして争わないのでしょうか?

 

実は、そこには中原と非中原の原則が影響しています。

 

公孫瓚

 

公孫瓚と公孫度の勢力は、幽州遼東郡を境に折半しているのですが、この遼東郡から東は異民族が割拠する土地であり、漢の勢力下にはあるけれど直接統治が及ばない土地になっていました。

 

ちなみに〇で囲んだ涿郡は劉備の出身地です。かなりのド田舎で、呂布に同じ田舎者同士と言われて図星のあまりブンむくれたのも分かります。

 

三国志時代の中原の東の果てこそが、公孫度が支配した遼東郡であり、生産力も低く、鮮卑(せんぴ)烏桓(うかん)のような遊牧騎馬民族、高句麗(こうくり)夫余(ふよ)のような朝鮮系の異民族が度々攻め込んでくる土地、獲得した所で防衛コストの方が高くなる場所だったのです。

 

烏桓

 

 

しかも、漢から送られた征討軍は、時々破られたりしていたので咬まれたらたまらないと考えた公孫瓚は、攻め込んだりしませんでした。一方の公孫度も、人数が多い漢民族を敵に回す愚を回避して両者は暗黙の不可侵状態だったのです。

 

 

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中原のどさくさを利用して中華に進出する公孫度

公孫度の地図

 

一方で、公孫度は公孫瓚こそ相手にしないものの、中原への野望がないわけではなく黄海を船で往来して、対岸の青州東萊郡(とうらいぐん)などを攻めていき、一時的にですがそこを占拠して営州を設置、営州刺史を置いて統治しています。

 

孔融

 

 

この頃の青州の刺史は戦下手で知られた孔融(こうゆう)で、この頃も偏屈ぶりを発揮し将兵は数百に過ぎない弱小勢力なのに、口舌の徒の王子法(おうしほう)劉孔慈(りゅうこうじ)などを重用、食料も不足しているのに曹操(そうそう)袁紹(えんしょう)、公孫瓚と手を組む事なく独立していたようですから、とても公孫度を追い払う力はないでしょう。

 

その後、孔融は袁譚(えんたん)に追われ、袁譚も曹操軍に駆逐されました。この間のどさくさで営州も消滅したのでしょう。ただ、公孫度の政治は暴政ではなかったようで、遼東の統治は安定していて邴原(へいげん)王烈(おうれつ)管寧(かんねい)という錚々(そうそう)たる面々が避難した時期もあります。その点は公孫瓚以上だと言えますね。

 

 

公孫瓚、袁紹滅亡後、曹操の軍門に降る遼東公孫氏

曹操と遼東公孫氏

 

 

その後、北方の雄の公孫瓚は、新興勢力の袁紹に敗れて滅亡し、遼東公孫氏のお隣さんは袁氏になりました。袁紹は、北方遊牧民とは融和的に接して、特に烏桓族に大きな信望を得ているので遼東公孫氏に対しても、公孫瓚時代同様の、つかず離れずの距離感を保ちます。

 

この袁紹を滅ぼして、曹操が北方の支配者になると曹操は積極策を取り、上表して、公孫度を武威将軍、永寧郷侯に封じます。公孫度は「俺は遼東の王だ!永寧侯とは何事か!」と立腹しますが、任命を拒否すれば滅ぼされる口実を与える事になるので、表面上は受け取った顔をして、印綬を武庫にしまい込みました。

 

司馬懿にボコられる公孫淵

 

 

公孫度は、公孫康に地位を譲り西暦204年に没します。この後の遼東公孫氏は、曹操の遠征軍に敗れて遼東に逃れた袁尚(えんしょう)袁煕(えんき)の首を切って、曹操に送るなど魏への恭順姿勢を取りますが、公孫淵(こうそんえん)の時代に、孫呉と曹魏で綱渡り外交をし、曹叡(そうえい)の怒りを買って西暦239年に司馬懿(しばい)に滅ぼされて一族皆殺しにされました。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

三国志ライターkawausoの独り言

 

遼東公孫氏は、公孫瓚とは無関係でしたが、中原の辺境という地理的な条件を活かして、中原の群雄の勢力争いの隙間を縫って青州を一部領有するなど抜け目のない立ち回りを見せ、後は派手な動きを見せずに実質支配に徹した強かな勢力でした。公孫淵は悪く言われますが、あの状況ならいずれ西晋に併合されて、その時点で遼東公孫氏は終わっていたでしょう。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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