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時代劇では師匠と弟子というのは特別な関係を持つものです。
中国においても師は父母に並ぶ尊敬すべき存在であり、その関係は一生続きました。
三国志の英雄劉備にも、師と仰ぐ存在として盧植が登場します。
そして、この盧植、学者でありながらかなりの武闘派として名前が轟いているのです。
今回は敵味方を超えて、多くの人に慕われた盧植について解説します。
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この記事の目次
色にも詩にも興味なし大酒を飲んだ武闘派学者
盧植は幽州涿郡涿県の出身です。
身長八尺二寸(漢の寸法では195センチ)という大柄な人物で声は鐘のように大きく響き、
若い頃から早くもタダモノではない風格を漂わせていたようです。
盧植は勉強熱心でもあり、青年になると友達の鄭玄と共に馬融という当代随一の学者に師事しました。
ところが、この馬融、元々後漢を建国した功臣である将軍馬援の一族で外戚である事から贅沢が染みつき
講義の最中も多くの美女を侍らせて歌舞音曲を楽しんでいたという人でした。
梁冀
おまけに馬融は長いものに巻かれる俗っぽい性格で、皇帝を毒殺して政治を欲しいままにし跋扈将軍の異名をとった梁冀に
迎合したので清流派の名士からは濁流派のボスだと非難され、同席を拒否する者までいたそうです。
並の青年なら、そんなお色気満載の馬融の塾で講義を受ければ、美女にウハウハで勉強どころではありませんが、盧植は美女には一度も目もくれず
真面目に学問に取り組んだので、馬融にも敬意を持たれ目をかけられました。
数年、馬融に師事する間に盧植は大いに教養を積んだのですが、詩文を造らず酒を一石(19,8ℓ)も飲み、俺は世界を救うのだという
大志を語っていました。
なんだか学者らしくない武闘派の雰囲気を持つ人だったのです。
九江蛮を討伐するも病で故郷に帰り塾経営と著述に励む
そんな盧植ですから、複数の州郡から引く手あまたでしたが、それを盧植はすべて断ります。
盧植は建寧年間(168年~172年)の中期に博士になりました。
こうしてみると、盧植はしがらみが多い宮仕えが嫌いな研究室の学者タイプかも知れません。
西暦175年に九江蛮が反乱を起こすと文武の才能がある人物として四府から推薦され九江太守に任命されます。
ここで盧植は期待に応えて九江蛮を鎮圧しますが、途中で病気を得たとして官職を去りました。
病気なんて言ってますが、盧植の性格から考えて俺の役割は終わったという事かも知れません。
こうして、故郷、涿郡涿県に帰った盧植は「尚書章句」や「礼記解詁」等、著作を執筆する傍らで私塾を開いて近隣の子弟に学問を教えています。
著名な盧植の私塾は入門者であふれ、三千人も弟子がいたそうで、その中には盧植と同郷の劉備や、公孫サン、高誘というような人物も
含まれていました。
劉備は盧植と違い、学問には熱心じゃなかったようですが、盧植の豪放磊落な性格には大いに感化されたかも知れません。
会南夷を討伐し、盧江太守から帝都図書館の職員へ
私塾を経営していた盧植ですが、再び、会南夷が反乱を起こします。
朝廷は以前の盧植の手柄を見込んで盧江太守に任命、数年勤めました。
ここでも反乱を鎮めると辞職しますが、今度は洛陽に呼び出されて東観という漢帝国の図書館の職員になります。
学者として研究に専念したい盧植に取って、ここは願ってもない仕事場で同僚の馬日磾、蔡邕、楊彪、韓説らとともに五経の改訂や
漢紀の編纂事業に携わっています。
その博識で清廉な人柄は、洛陽では増々広まり、尊敬を集めるようになり召されて侍中になり、次には尚書に移動します。
こうして盧植は中央の政治に関わりますが、硬骨漢ぶりは相変わらずで、霊帝が取り巻きや宦官と組んで腐敗した金権政治をしている事に我慢できず
たまたま起きた日食を理由に政治の刷新を訴えました。
当時、日食は政治が正しく行われない事に対する天の怒りと考えられていました。
しかし、霊帝は盧植の意見を聞き入れなかったようです。
黄巾の乱勃発!北中郎将として張角を破るが・・
西暦184年、黄巾の乱が発生、やっぱり盧植はそれまでの戦功を買われて再び四府からの推挙を受け北中郎将に任命、
北軍五校士の将軍として護烏桓中郎将の宗員を副官に据え、さらに志願兵を募る事で大軍を編成して張角の討伐に向かいます。
盧植の軍は強く、張角の軍を大いに破り広宗城に敗走させました。
勢いに乗る盧植軍は広宗城を包囲して、雲梯車で城内に入り込もうとします。
しかし、ここで盧植に思わぬ落とし穴が待ち受けていました。
戦況を視察する為に霊帝の使いとして、小黄門の宦官左豊が盧植の本陣を訪れ、当然のように
「良い報告をしてほしいなら賄賂を寄こせ」と要求したのです。
ずーっと硬骨漢でやってきた盧植に大人の対応など出来ません。
「こんな兵糧不足の時期にあなたに献上するものなどない!」と突っぱねてしまいました。
これを恨んだ左豊は洛陽に帰還すると霊帝に「盧植は指揮を怠慢して戦争を長引かせている」と讒言します。
これを真に受けた霊帝は激怒、盧植を逮捕して官職をはぎ取り死罪を命じますが、周囲の反対もあり罪一等を減じて牢獄に収監してしまうのです。
ほーんとに正直者は割に合いませんねー!
盧植の後任は董卓でしたが、羌族相手とは勝手が違うらしく大苦戦、結局、董卓も更迭され代わりに豫州で黄巾賊を平定していた皇甫嵩が
広宗城を包囲、奇襲により張角の弟で副将の張梁を斬り、さらに、もう一人の弟、張宝も斬りました。
すでに張角は亡くなっていたので指導者を失った黄巾の乱は終息に向かいます。
一方、皇甫嵩は洛陽に帰還してから、いかに盧植の指揮ぶりが素晴らしかったかを証言したので、盧植は許され再び尚書に返り咲きました。
何進に董卓の危険性を忠告するが無視、宦官皆殺しには加担
黄巾の乱が終結すると、外戚の何進と宦官の間で勢力争いが起こります。
特に西暦189年にアホ皇帝の霊帝が死んでから争いには拍車が掛かりました。
何進は、宦官皆殺しの計略を配下の袁紹や袁術の要請で実行に移そうとしますが、妹である何太后が宦官の味方をして煮え切らないので、
涼州軍閥の董卓を洛陽の周辺まで呼び寄せて圧力をかけようと画策します。
盧植は、董卓の凶暴な性格を知っていたので、これに反対しますが何進は聞きませんでした。
ところが何進は、グズグズしている間に宦官、仲常侍に先手を打たれ殺害されます。
これに袁紹や袁術が猛反発し、兵を率いて後宮に乱入し宦官を皆殺しにしました。
この時には、盧植も宦官皆殺しに加担し、少帝を連れて逃げる仲常侍の前に大斧を持って立ち塞がったそうです。
学者先生が大斧を武器にして仁王立ちですよ、違和感ありありですよね。
まあ、盧植は宦官の左豊のせいで投獄され、ひどい目にあっていますし、性格を見ても清流派の人物のようですから無理もないでしょう。
ですが、この大混乱のせいで洛陽の行政は麻痺、城外に逃げた少帝と陳留王は、洛陽郊外にいた董卓に保護されました。
こうして、董卓は帝を保護したという大義名分を得て堂々と洛陽に入城したのです。
董卓相手にも遠慮なく諫言、隠棲して大往生
董卓は少帝の威光を背景に、次第に暴君の性質を現していきます。
群臣は皆、董卓の恐ろしさに不満があっても口をつぐんでいましたが、盧植は硬骨漢ぶりを発揮し、憶する事なく堂々と諫言しました。
特に、董卓が少帝を廃して陳留王を皇帝にすると言い出すと、「なんの権限があって」と猛烈に反対、激怒した董卓は盧植を投獄して
処刑しようとします。
しかし、蔡邕や議郎の彭伯が「盧植を殺せば天下の声望を失います」と必死に董卓を宥めたので、董卓も渋々譲歩し
尚書をクビにするだけに留めました。
命の危険を感じた盧植は、病気療養を理由に洛陽から逃亡、これを察知した董卓は追っ手を差し向けますが手遅れで、
盧植は故郷に近い上谷郡で隠棲します。
その後、冀州牧の袁紹が軍師になってくれるように依頼するとそれに応じますが病気になり、192年に死去しました。
盧植の硬骨漢ぶりは天下に聞こえていて、西暦204年袁紹の遺児である袁尚を破った曹操は、途中に盧植の故郷である涿郡涿県に立ち寄り、
盧植の功績を顕彰し、盧植の子であった盧毓を取り立てて長年の功績に報いたそうです。
盧植とはどんな人?不正と悪を憎み酒を愛した武闘派学者の人生
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