呂布奉先は後漢(25年~220年)の末期の武将です。武芸の腕が随一だったことで知られています。
最初は幷州刺史の丁原に仕えていましたが、董卓からスカウトを受けたので丁原を殺して董卓につきました。しかし、王允からのスカウトを受けると、あっさりと董卓を殺す無節操をやってのけます。
今回は呂布について解説致します。
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丁原を裏切る呂布奉先
呂布は幷州五原郡を本籍地とする人です。幷州五原郡は現在の内モンゴル自治区です。
武芸が抜群だったので、幷州刺史の丁原の部下になりました。この丁原も武芸の腕はたつのですが、識字能力無しの荒くれ者です。
要するに丁原と呂布の関係は、ヤ〇ザの親分・子分の関係です。
中平6年(189年)に後漢第12代皇帝霊帝が亡くなりました。外戚の何進は、この機会に目の上のタンコブである宦官の殲滅を企てますが、逆に返り討ちにあいました。
丁原と呂布は何進に呼ばれて都の洛陽に来ましたが、すでに何進は殺されたあとでした。そんな時に、丁原の軍に目を付けた人物がいました。
董卓に出会い呂布の人生は大きく変わる
それは董卓でした。彼も何進から都に呼ばれた人物ですが、連れたきた兵士が少なかったのです。
だから、丁原を殺して軍を奪う計画を立てました。
そこで、董卓は丁原の傍に控えている呂布を買収して丁原を殺させました。
呂布も将来見込みの無い丁原よりも、見込みのある董卓を選んだのです。
董卓を殺す呂布
しかし、董卓との生活も長くありません。董卓と呂布はトラブルが絶えませんでした。
1度目は呂布が何かで董卓を怒らせたようです。怒った董卓は呂布に向けて戟を投げました。
2度目は呂布が董卓の侍女に手を出したのです。董卓は全く気付いていませんが、呂布の心中は穏やかではありません。
なお、この侍女の話を脚色したのが『三国志演義』の貂蝉の物語です。
董卓暗殺計画を企てる王允
ビクビクしている呂布に話しかけてきたのが王允でした。王允は呂布と同じ幷州を本籍地とする人物です。同郷関係を利用して近づいてきたのです。
王允は董卓を一緒に殺す計画を持ってきました。
呂布の返事は当然、「OK」でした。
こうして初平3年(192年)に董卓は呂布により殺されました。
呂布独立
呂布の次の主人は王允ですが、彼はすぐに董卓の残党に殺されました。仕方なく呂布は逃げて袁術の所に行きました。袁術の一族の約50人が、かつて董卓によって殺されました。その董卓を殺した呂布は袁術にとっては恩人です。
袁術は最初は呂布を歓迎しましたが、時が流れるにつれて彼の本性が見えたのか嫌になってきました。呂布も嫌になって出ていきました。
呂布は袁紹の所にも行きました。袁紹も最初は歓迎してくれたのですが、時間が経過すると呂布が嫌になってきました。
呂布って四六時中顔を合わせたくないタイプですね。ただし、不思議なことに呂布と気が合ったのは張邈という人でした。
張邈は曹操の親友で陳留太守でした。
興平元年(194年)に呂布と張邈、さらに元・曹操配下の陳宮は曹操が留守の隙を狙って攻撃を仕掛けました。最初は呂布が優勢でしたが、段々と曹操が巻き返してきて逆転しました。
しかし、この時の戦により呂布は独立することになります。
冷酷な劉備
建安3年(198年)に呂布は劉備を攻撃しました。一時は敗れた劉備でしたが、曹操と合流して巻き返しをはかりました。
呂布は城を包囲された結果、部下の裏切りが相次いだので降伏しました。裏切りを重ねた人が、最終的に部下に裏切られるとは、なんとも哀れです。
呂布は捕縛された時に以下のような、やり取りがありました。呂布は「縄がきつい、緩めてくれ」と言いました。
曹操は少し可哀そうに思った。その時でした。
「待ってください。呂布が丁建陽や董太師にしたことを忘れましたか?」と横から口を挟んだ人物がいました。
それは劉備でした。この時の劉備の呂布に対しての態度が冷酷であることが分かります。
丁原は「建陽」と字で、董卓は「太師」と位で呼んでいます。
その点、呂布は呼び捨てです。
マンガや小説のせいで気付かないのですけど、昔の中国では相手を呼び捨てにすることは、非常に失礼とされています。
そのため、字や位があったのです。
劉備から言われて曹操は、思い出してとどまりました。
言われた呂布は結局、処刑されました。
最期のセリフは「こいつ(劉備)こそ、信用出来ないんだぞ!」でした。
呂布はロシア系?
ネットでの噂ですが、呂布にはロシアの血が混じっているという噂があります。
どこから出た噂だろうと思いました。
筆者はおそらく、呂布が定住しないでウロウロしていることから出た説だろうと思います。
一応、筆者の推測だけ述べておきます。
呂布は幷州五原郡(現在の内モンゴル自治区)に本籍を置いていました。当時の幷州五原郡は、匈奴と接しています。
呂布は中国人と匈奴のハーフと推測されます。ましてや、当時の匈奴はモンゴル系の顔をしておらず、イラン系の顔をしていました。
呂布がイケメンと言われるのは、おそらくそれが原因と考えられます。
以上のことから、筆者は呂布はロシア系ではなくイラン系のハーフと考えています。
三国志ライター 晃の独り言
以上が呂布奉先に関しての考察です。
はっきり言って、呂布は天下を取る器の人物ではありません。
しかし、こういった人物がいるからこそ歴史が動いていくのです。
※参考文献
・高島俊夫『三国志「人物縦横談」』(初出1994年 後に『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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