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【徐晃の逸話】実は三国志最強レベル!逸話からわかる徐晃の強さ

2019年4月12日


 

 

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徐晃

 

猛将・智将ひしめく曹操麾下(そうそうきか)にあって、特に目覚ましい功績を挙げた張遼(ちょうりょう)楽進(がくしん)于禁(うきん)張郃(ちょうこう)・と並び、「魏の5大将軍」としてたたえられている徐晃(じょこう)。政治的活動をほとんどしなかった根っからの武人であり、宋時代の兵法家張預から、中国の「名将べスト100」にも選出された、徐晃の輝かしい戦績と残された逸話を紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徐晃「おいおい!俺様は負けてないってば!」

呂布のラストウォー 処刑される呂布

 

 

三国史最強クラスの武将といえば、呂布(りょふ)関羽(かんう)などの名前が浮かびますが、両者とも戦いに負けた後捕縛・処刑されています。

 

 

孟達

 

 

徐晃も孟達(もうたつ)に弓で射殺されたことになっていますが、それは小説「演義」によるフィクション、真実ではありません。

 

 

曹叡

 

 

正史によると曹操の孫にあたる曹叡(そうえい)の代になっても、呉の諸葛瑾(しょかつきん)を撃退するなど現役バリバリで活躍し、227に年病没するまで個人的な作戦ミスで戦に敗れたことがない、「不敗将軍」だったのです。

 

 

 

実は名軍師?徐晃の優れた洞察力を示す逸話

成廉、魏越、呂布

 

 

呂布の配下として一時曹操を追い詰めた張遼(ちょうりょう)や、袁紹(えんしょう)の元ですでに武名をとどろかせていた張郃同様、李傕(りかく)の臣である張奉という賊上がりの荒くれものに、徐晃は元々付き従っていました。張奉自身に何ら才覚はありませんでしたが、長安を日に日に荒廃させる李傕と郭汜(かくし)の争いに嫌気が差し、「洛陽へ戻りたい」と願っていた皇帝劉協(りゅうきょう)を守り、見事洛陽への脱出を成功させ、武官の最高位に近い「車騎将軍(しゃきしょうぐん)」へ登り詰めます。この時、相談役として「皇帝脱出の手助けをすべき!」と、張奉に進言したのが誰あろう徐晃だったのです。

 

怒る曹操

 

 

しかし、張奉はやはり小物にすぎず、劉協脱出に協力した董承らと権力争いを始め、隙に乗じた曹操にあっさり敗北、袁術(えんじゅつ)を頼って逃亡することになります。徐晃は曹操の器が天下に届くものだと確信していたため、事前に強く帰順を進言、一時同意を得ていたものの張奉はすぐに心変わり。

 

「こりゃダメだ」と確信した彼はこの時を境に曹操へ鞍替え、その後の活躍へとつながっていくのです。誰も手を貸すものがいなかった、劉協の洛陽脱出を進言したことや、数段張奉より位階が低い曹操への帰順を勧めたこの逸話1つとっても、徐晃は武芸一辺倒だったのではなく並外れた洞察力を併せ持つ、天下の名将であったことがうかがえます。

 

魏のマイナー武将列伝

 

 

 

徐晃最大の見せ場!関羽を退けた「襄樊の戦い」

徐晃と夏侯淵

 

 

曹操という終生の主を得た徐晃は、水を得た魚のごとく中国全土を駆け回り、夏侯淵(かこうえん)・張郃と共に韓遂(かんすい)馬超(ばちょう)などの西涼(せいりょう
)
勢力や、入蜀し漢中へ勢力を拡大しつつあった劉備(りゅうび)と対峙し、目覚ましい戦果を挙げていきます。

 

 

はじめてのプロ野球 関羽

 

 

列挙するときりがないほどの功績を残している徐晃ですが、そんな中でも特筆すべきなのは、関羽(かんう)と繰り広げた「四家の戦い」でしょう。219年、漢中戦線の司令官であった夏侯淵が定軍山の戦いで討ち死に、漢中の諸軍は撤退を余儀なくされます。

 

 

曹操、ホウ徳、于禁

 

 

好機と見た関羽が北上し襄陽(じょうよう)樊城(はんじょう)を包囲したため、徐晃は曹操の命により曹仁を救援すべく、宛に駐屯することになりました。しかし、先に救援へ向かっていた于禁(うきん)は敗れ捕虜となり、猛将龐徳(ほうとく)に至っては関羽に討ち取られる始末。

 

 

徐晃と許チョ

 

 

一方、徐晃陣営はどうかといえば当時任されていた軍勢には新参者が多く、この不利な情勢を独力で打破するのは困難と見た彼は、曹操からの援軍を待ち合流したうえで、近くの城を占拠していた賊を壊滅させ足場を確保、ジワリジワリと慎重に関羽との距離を詰めました。

 

 

関羽

 

 

関羽はこの時囲頭と四家に屯所を築き、自身は囲頭で陣を張って待ち構えていたものの、徐晃は意表をついて四家を攻め、壊滅寸前に追い込みます。慌てた関羽は自ら兵を率いて救援に向かいましたが、詰め将棋のように準備をしていた徐晃にボロ負け、あまりの酷いありさまに、自ら川へ身を投げる兵まで出たほどだったのだとか。

 

 

曹操

 

 

この素晴らしい徐晃の戦いっぷりを聞いた曹操は、「これほど長い距離を進軍し、敵の包囲網を破った将は初めてだ。」と大絶賛。徐晃の軍が本営・摩陂に辿り着くと曹操は7里先まで出向き、言葉の限りを尽くして称え、夜を徹して大宴会を催し労をねぎらったと言います。

 

 

三国志ライター 酒仙タヌキの独り言

酒仙タヌキ 三国志ライター free

マメな斥候(せっこう
)
を怠らず情報収集を重視し、敗戦時の対策練ったうえで戦いを進める堅実派の徐晃。その一方で、チャンスと見るや配下に食事の暇も与えないほど、猛烈な追撃を行うこともあったそうです。

 

 

死期を悟る曹操

 

 

お世辞大魔王曹操から、「孫武に勝る」とまでおだてられた徐晃は、曹丕(そうひ)の代には首都防衛を司る最高位「右将軍」に登り詰め、死後は曹操の廟へ「功臣20人」の1人として祭られました、諡号(しごう
)
壮侯(そうこう)

 

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赤兎馬はカバ

 

 

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酒仙タヌキ

酒仙タヌキ

小学生のころから司馬遼太郎を読み漁ってきた筋金入り、高校在学中に中国にホームステイしたころから雄大なその魅力に憑りつかれ、いまや晩酌と歴史をこよなく愛する立派な「中年歴男」に。 戦国・幕末はじめ三国志はもちろん、最近では韓流歴史ドラマにドはまり中、朝鮮王朝ロマンに浸りながら嫁タヌキの作るおつまみをつまむのが人生最高の喜び。 好きな歴史人物: 徳川慶喜、上杉鷹山、程昱、荀攸など、どっちかと言うと脇役好き。 何か一言: 歴史はそのまま政治・経済学であり、そして何より人生を豊かにしてくれる「哲学」と考えています。

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