袁術は後漢(25年~220年)の群雄の1人です。短期間ではありますが後漢に見切りをつけて、仲(197年~199年)という王朝を建国して皇帝にまでなりました。
残念ながら、中国の正当王朝として認められていません。今回は正史『三国志』をもとに、後漢に反抗して皇帝にまでなった袁術について解説します。
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名門に生まれる袁術
袁術は後漢の司空にまで昇りつめた袁逢の嫡子として生まれました。袁家は後漢の名門です。
従兄に袁紹がいます。
『三国志演義』では実の兄弟という関係になっていますが、実際は親族関係というだけのようです。袁紹は生まれがよく分からないので、袁術は昔から袁紹のことを馬鹿にしていました。そのため、袁紹と袁術の仲は悪かったようです。
宦官討伐に加わる袁術
中平6年(189年)に後漢の第12代皇帝霊帝が亡くなりました。
その後、大将軍の何進と宦官との間で権力闘争が起こりました。だが、何進の弟の何苗や妹の何皇后が宦官を擁護していたので、最終的に何進は宦官に殺されることになります。
この時に袁術は袁紹や董卓と一緒に、何進の敵を討つために宦官を一掃します。
ところが、今度は董卓が権力を自分のものにしたので袁術は董卓と敵対しました。初平元年(190年)に袁紹を筆頭に各地の群雄が董卓討伐に集まりました。この時袁術も参加しますが、大した成果も得られずに董卓には長安に逃げられました。
袁紹と天下を争う袁術
初平3年(192年)に董卓は呂布と王允により殺されて天下は混乱に陥りました。
袁術は公孫瓚・陶謙と手を結んで袁紹に対抗しました。一方、袁紹は曹操と手を結びます。
初平4年(193年)に袁術と袁紹は天下を争って戦います。結果は袁術の惨敗に終わります。
袁術と同盟を結んでいた公孫瓚も袁紹に敗れました。この時点で、袁術は天下統一の争いから脱落しています。敗北した袁術は南方の揚州まで逃げて揚州刺史の陳温を殺して、その領土を奪いました。
余談ですが、陳温は曹操が挙兵した時に兵士を提供してくれた人物であり、曹操にとっては恩人に当たります。
袁術皇帝になる
その後も袁術は董卓の残党と連絡をとって、朝廷から正式に左将軍に任命されています。従兄の袁紹も将軍号は持っていますが「自称」です。袁術はこの点、連絡をとる相手はともかく、朝廷に対しての手続きをとっています。
袁紹との差別化を図ろうとしているのが分かります。
その後、董卓の残党も曹操に敗れて後漢の第14代皇帝の献帝も曹操が保護しました。これで後漢の権威が落ちたと思った袁術は、後漢に代わる王朝を自分が建国することを決意します。
もちろん部下から反対もあいましたが、袁術は強行的に決意します。建安2年(197年)に袁術は皇帝になりました。国号は「仲」です。
袁術は三国が樹立される前に皇帝になったのです。
皇帝だけが持つことを許される玉璽という印鑑は、かつて董卓討伐の時に孫堅が洛陽の井戸から見つけたものを袁術が譲られており、それを使うことにしました。
悲惨の末路
ところが、袁術の基盤としている揚州は思った以上に土地がよくありません。そのため、民や部下も袁術から心が離れていきました。
建安4年(199年)に袁術は「仲」を解散して、袁紹に帝を譲る決意をします。ところが、同年に袁術は亡くなりました。
袁術が持っていた玉璽は広陵太守の徐璆の手に渡り、朝廷に返還されました。袁術の一族は間もなく孫権に保護されますが、丁重に扱われたそうです。
三国志ライター 晃の独り言
以上が後漢のもう1人の皇帝袁術に関しての記事でした。袁術が建国した仲は具体的政策が無いまま、終わったのが残念でした。筆者の気持ちとしては、もう少し長続きして欲しかったです。
※参考文献
・宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』(平楽寺書店 1964年)
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