『三国志』の主役級キャラクターと聞けば、すぐに思い浮かぶのは劉備・関羽・張飛・諸葛亮・曹操など・・・・・・しかし、主役だけでは歴史は動くわけではありません。というわけで、筆者が選ぶ『三国志』のバイプレーヤーを紹介します。
今回は呉(222年~280年)の政治家闞沢です。闞沢は史料が少ないので正史『三国志』と小説『三国志演義』の両方から紹介します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「三国志 脇役」
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農家の子に生まれる闞沢
正史『三国志』によると闞沢は、「家世農夫」と記されいます。「家世農夫」は「代々農家」という意味です。武将でしたら珍しい話ではないですが、闞沢のように政治家が農家出身というのは非常にレアケース。闞沢は昔から学問が好きで本を転写しながら、字を覚えていきました。
周囲の人間からしてみれば、「農家のせがれのくせ何をやっているんだ?」と思われたことでしょう・・・・・・
小説『三国志演義』のウソ
闞沢で読者の皆様がご存知なのは、小説『三国志演義』の「赤壁の戦い」です。
建安13年(208年)に闞沢は、黄蓋のニセの投降文書を曹操に届けますが曹操に見破られそうになります。曹操は『孫氏』の兵法書を熟読していたので、闞沢と黄蓋の投降がウソと考えます。
だが、闞沢は「兵法書を熟読するのは結構ですけど、兵法の応用を知っておいた方がいいですよ」と口で曹操を負かします。この闞沢の弁舌と黄蓋のニセ投降作戦、周瑜の火計により劉備と孫権は曹操に勝利します。
でも、この話は小説『三国志演義』の虚構の上に、闞沢は赤壁の戦い不参加。闞沢が孫権のもとで直接働くことになるのは、建安24年(219年)からであり割と遅い・・・・・・
さらに、夷陵の戦いで呉が蜀(221年~263年)に苦戦していると、闞沢がまだ無名だった陸遜を孫権に紹介します。ところが、それも小説『三国志演義』の虚構です。
尊敬される闞沢
闞沢は呉の危機の時に必ず登場する人物かと思ったら、全て小説『三国志演義』の虚構であり実物はかなり地味な人物です。
それじゃあなぜ、闞沢はこんなに有名なのでしょうか?
闞沢は政治や戦争で有名になったわけではなく、農民から苦学して成り上がった人物なので、そこが尊敬されています。なんといっても虞翻(ぐほん)がリスペクトしていました。虞翻は呉の変わり者として有名で、主君の孫権に平気な顔で何度も盾突いていました。
魏(220年~265年)の于禁が呉に捕虜として生活していた時も会うたびに、「殺せ、殺せ」と言うばかり。当然こんな変わり者は、他人を尊敬するはずありません。
でも虞翻は闞沢だけ見る目が違っており、「闞沢、ハンパないって!!」と叫んでいたようでした。
すいません、ネタが古かったようですね・・・・・・
虞翻がリスペクトしていたのは本当の話であり、闞沢を前漢(前202年~後8年)の儒学者の董仲舒と揚雄に比較していました。董仲舒は前漢の第7代皇帝に武帝に仕えて儒学を国学にまでしており、揚雄は前漢から新(8年~23年)に仕えて大成した儒学者です。
また、孫権の息子の孫登も亡くなる間際に今までよく頑張ってくれた部下の名前に闞沢を挙げています。闞沢がいかに凄いのか分かる話でした。
三国志ライター 晃の独り言
以上、闞沢についてざっくりと解説しました。
闞沢は農民の身でありながら、苦学して出世していくので筆者は好きなキャラクターなんですよ。
その点、関羽は好きになれません。学問を修めている身でありながら、傲慢な態度で同僚に接しているあの姿は、正史『三国志』を読んでいるだけでムカムカします。
関羽ファンの皆様スミマセン(汗)
※参考文献
・高島俊夫『三国志 「人物縦横断」』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま学芸文庫 2000年に改題)
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