楽進は魏(220年~265年)の将軍です。魏の建国前には亡くなっているので、正確には後漢(25年~220年)の将軍が正しいでしょう。楽進は曹操の挙兵当初から従っており様々な戦で功績を挙げてきました。さて、楽進はどのような最期を遂げたのでしょうか?
今回は正史『三国志』と小説『三国志演義』をもとに濡須口と合肥の戦い、そして楽進の最期について解説します。
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楽進と濡須口の戦い
建安18年(213年)に曹操は孫権討伐のために濡須口に向けて出陣しました。孫権はすでに呂蒙の提案をもとにガッチリと防御を固めています。到着した曹操は濡須口の防御を見て感心しました。
「息子を持つなら、孫権のような奴がいいな。劉表の息子(劉琦・劉琮)なんて全然ダメだね」
曹丕と曹植が可哀そうになるコメントですが、これは『呉歴』という呉に肩入れした書物に記されているので創作の可能性も高いです。残念ながらこの時の出陣は、にらみ合いが続くだけで意味が無いと悟った曹操自ら撤退しました。
楽進と第2次合肥の戦い
建安20年(215年)に曹操は漢中の張魯を討伐に出かけます。これを幸いに孫権は10万の軍で合肥に出陣。迎え撃ったのは張遼・李典・楽進・薛悌。薛悌って誰だよと思うかもしれませんが、彼はかつて曹操が呂布に兗州を攻撃された時に荀彧・程昱と一緒に奮戦した古参武将の1人です。つまり、李典と同格です。
張遼たちは7千しかおらず真正面からぶつかれば敗北は当たり前です。しかし、曹操は張遼たちに秘策を授けていました。
その秘策は・・・・・・なんと「8百人だけで孫権に奇襲しろ」でした。普通に考えたら、「そんなの無理でしょ、こっちが死んじゃいます!」と叫びたくなります。だが、普通じゃないことを考えるのが曹操ですし、今まで間違っていたこともほとんど無かったので早速やってみました。
到着して間もない孫権軍は疲れていました。そこを奇襲されてしまい大敗北!この時、淩統が孫権を逃がすために奮戦して大けがを負い、部下のほとんどを失います。
こうしてわずか10日程度で孫権は撤退!魏の大勝利となります。戦は通常、数のゴリ押しなのですが曹操はその裏をかいて勝利しました。この時、孫権追撃で活躍した楽進は後に右将軍に昇進します。
楽進の最期 正史と小説の比較
実は楽進の最期なのですが、正史では建安23年(218年)に病死という素っ気ない結末で終わっています。楽進は列伝は残っているのですが、同僚である張遼・徐晃に比べると記録が、ぼかしたように書かれています。
陳寿は楽進の業績に対して評判を裏付けるものが無いと、はっきりと述べています。おそらく陳寿が執筆していた時期には楽進に関しての史料があまり残っていなかったのでしょう。
さて、小説『三国志演義』ではどうでしょうか?小説では建安21年(216年)の濡須口の戦いに出陣。呉(222年~280年)の淩統と一騎打ちを行って追い詰めます。
この時、淩統の救出のために甘寧が放った矢が顔面に命中して落馬しました。即死することはありませんでしたが、楽進はこれを最後に『三国志演義』から姿を消してしまいます。破傷風で亡くなったと考えてよいのでしょうか?
正史同様に小説の楽進もあっけない幕切れでした。
三国志ライター 晃の独り言 識字能力の高かった楽進
以上が、正史と小説から見た楽進の最期でした。楽進はマンガ・ドラマ・ゲームでは、よく出るのですが、正史を読むと何も読み取ることが出来ない不思議な人です。
正史によると楽進は曹操のもとで最初は「帳下の吏」(記録係)をしていました。このことから、楽進は識字能力があったと分かります。
関羽ほどではないかもしれませんが、おそらく呂蒙以上だったでしょう。呂蒙は読むことは出来ても書くことは出来なかったそうですので・・・・・・中国の武人は読み書きが出来ないのが当たり前です。曹操が楽進を高く評価していたのは武人でありながら識字能力があったからと筆者は推測しています。
※参考文献
・石井仁『魏の武帝曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
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楽進が好きという人はコメントをお待ちしています。