公孫続とはどんな人?黒山賊と提携し父を救おうとした孝行息子


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公孫続

 

北方の勇者、公孫瓚(こうそんさん)の息子が公孫続(こうそんしょく)です。史料によっては、こうそんぞくとも呼ばれます。

しかし、公孫続という名前にピンと来る人はおそらく少ないでしょう。というのも公孫続は三国志演義に登場しないからです。

 

劉琮

 

可哀そうに、、公孫瓚の従兄弟(いとこ)とされる(公孫越(こうそんえつ)はちゃんと登場するのにこの存在感の無さ、袁術(えんじゅつ)の子の袁燿(えんよう)劉表(りゅうひょう)の子の劉琮(りゅうそう)にも共通しますね。

ただ、公孫続は決して無能ではなく、むしろ父を救おうとした勇気ある人でした。

そこで、今回は公孫瓚の子、公孫続について解説します。

 

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父、公孫瓚の命令を受けて張燕の下へ

公孫サン(公孫瓚)

 

三国志では、従兄弟の公孫越が袁紹配下に殺害された事件を契機に公孫瓚は袁紹(えんしょう)との戦いに入ります。

 

劉虞

 

当初、戦いは一進一退でしたが袁紹が根拠地として冀州(きしゅう)を得て経済基盤を強めさらに、公孫瓚が王族で名声のある劉虞(りゅうぐ)を殺害したので袁紹が優勢になります。

王族である劉虞は人望が厚く、袁紹は公孫サン討伐を弔い合戦に仕立てあげます。

また公孫瓚は豪族を弾圧、異民族にも強圧的だったので両者は劉虞の弔い合戦の大義を掲げた袁紹に味方し、公孫瓚は追い詰められていきます。

 

公孫サン(公孫瓚)

 

西暦195年、袁紹に連敗した公孫瓚は一族郎党と軍勢を率いて易京に籠ります。

ここは、あらかじめ築城していた本格的な防御施設で城壁は十重もあり、城壁は15~18メートル、本丸は30メートルの高さを持っていました。

 

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

公孫瓚はここに三百万(こく)の兵糧を積み、何十年でも守る構えを取りました。

洛陽城

 

しかし、いかに完璧な籠城(ろうじょう)でも、ただ堅守(けんしゅ)するだけでは包囲は解けません。

 

張燕

 

そこで、公孫瓚は袁紹と利害が対立している黒山賊の張燕(ちょうえん)と連携すべく子の公孫続を使者として派遣したのです。


父のsosに公孫続10万の援軍を率いて参上

袁紹

 

袁紹は高い城壁と頑強な抵抗に苦戦しますが、持ち前の粘り強い性格を発揮。雲梯(うんてい)衝車(しょうしゃ)を使って城壁をよじのぼり、

地下道を掘って城壁を崩すなど数年にわたる包囲戦を継続し、じわじわと本丸に迫ってきます。

楽観的な公孫瓚も、毎日続く激しい袁紹の攻撃に神経を消耗たまらず、黒山賊に派遣した公孫続に使者を派遣します。

三国志大学で勉強する公孫サン(公孫瓚)

 

「袁紹の攻撃は、ますます激しさを増しておる。このままでは、我々が勝てる見込みは一ミリもない。

お前は張燕に、高速ドゲザーして迅速に軽騎兵を借りて援軍とし北方で烽火(のろし)を挙げて父に合図せよ。

挟撃(きょうげき)して袁紹を除かなければ、父の死後、お前の安住の地はないと知れ」

三国志公孫瓚伝に引く典略(てんりゃく)

 

こうまで言われて、黙っていられるわけもありません。

(まずい、父上がピンチだ、ここは何としても張燕に援軍を請わねばならん)

公孫続が覚悟を決めて張燕に援軍を求めると、張燕は太っ腹にも杜長(とちょう)という部下に10万の騎兵をつけて易京へと急行させたのです。

 

次第に巨大化していく黒山賊と張燕3

 

いやぁ頼んでみるもんですね、賊とはいえ張燕はなかなか義理のあるヤツです。

 

 

・kawa註

因みに文面の高速ドゲザーとは、kawausoの誇張(こちょう)ですが、

これは原文では砕首(さいしゅ)とあり頭を地面に激しく擦りつける礼儀を意味しています。

だから今風に言うと、高速ドゲザーと言っても間違いではないのです。

 

【劉備の兄貴分の真実の姿を大紹介】
公孫瓚特集


全ては台無し、漏れていた奇襲作戦

援軍を率いる公孫続

 

しかし、公孫続の努力は公孫瓚のせいで台無しになりました。

なんと、公孫瓚が公孫続に向けて出した使者は袁紹軍の包囲網に捕まり手紙の内容は全て筒抜けになっていたのです。

袁紹は、敢えて公孫瓚の計画に乗るふりをして使者を解放しました。

そうとは知らない公孫続と杜張の援軍、軽騎兵十万は易京に殺到して、待ち構えていた袁紹の伏兵に完全に撃破されます。

三国志のモブ 反乱

 

こうして、公孫続の援軍を撃破してから袁紹軍は北方で烽火を挙げます。

何も知らない公孫瓚は、援軍が来たと思い込んで城門から出撃。待ち伏せていた袁紹の手勢に逆に挟撃され城に逃げ戻りました。

公孫瓚の最期の望みは、こうして無残な失敗に終わるのです。

諦める公孫サン(公孫瓚)

 

袁紹は西暦199年には穴を掘って地下で火を焚き、城壁を脆くして崩すという地道な作業を続け、ついには高さ30メートルの本丸の城壁を破壊します。

もはやこれまでと悟った公孫瓚は、姉妹と妻子を絞殺。その後に楼閣に火を放って自害したと後漢書に記録されます。


公孫続は匈奴に殺害される

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

公孫続が、どのタイミングで戦死したかは明らかではありません。

しかし、後漢書の記述に匈奴の一部族である屠各(とかく)に殺害されたとあるので、奇襲作戦を仕掛けたその時に殺害された可能性が高いです。

 

というのも軽騎兵とはいえ、騎馬の襲撃に対して袁紹軍の主力の歩兵では機動力で難があり、恐らく弩兵の攻撃と包囲する形での異民族騎兵の

逆奇襲が採用されたように考えるからです。

騎射の術に長けた騎馬兵士

 

或いは、界橋(かいきょう)の戦いで公孫瓚を破ったように闇夜に弩兵を伏せておき公孫続の軽騎が到着するや、一斉射撃で馬を混乱させて、

その後に匈奴騎兵を突撃させて散々に撃破したのでしょうか?

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

そもそも、どうして、公孫続は三国志演義に登場しないのでしょうか?

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん04 哀

 

これは多分ですが、公孫瓚を善玉(ぜんだま)に書きたい三国志演義の作者にとって、黒山賊と繋がる公孫続は存在が都合の悪いキャラなんでしょう。

例えば三国志演義の劉備は、公孫瓚が袁紹に滅ぼされた事を満寵から知らされその仇を討つという名目で、袁紹の従兄弟の袁術討伐を

曹操に願い出ています。

酒を飲む曹操と劉備

 

またその時、曹操と英雄論議をしていた劉備は公孫瓚の名前を出しませんでした。

推測すると劉備が名前を出せば、曹操は公孫瓚の近況を語らねばならず、公孫瓚が善玉とはほど遠い生臭い群雄である事がバレてしまうからです。

そうなると、そんな公孫瓚を兄貴分とする劉備も善玉には出来なくなります。

公孫続は劉備を善玉にする為必要がないキャラとされたんでしょうな

 

参考文献:正史三国志 後漢書

 

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