横山三国志で陳式と夏侯尚が人質交換された時、黄忠が夏侯尚を射ったのは史実?


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横山三国志 表紙引用

 

横山三国志では漢中攻略戦で魏と呉が激突しますが、その交戦の途中で(しょく)陳式(ちんしき)が魏に捕らわれ、逆に魏は夏侯尚(かこうしょう)が蜀に捕らわれました。そこでお互いの身柄を取り返す為に人質交換をするのですが、その途中で双方が矢を射かけだし、黄忠(こうちゅう)が夏侯尚に背後から矢を放ち負傷させるという描写が出て来ます。

 

キングダムと三国志 信と曹操のはてな(疑問)

 

どう見ても、汚いの一言なのですが、このような事は事実なのでしょうか?それともフィクションなのでしょうか?

 

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わざわざ戦場で人質交換をする必要はない

三国志のモブ 反乱

 

史実では、陳式と夏侯尚が人質交換されたという記述はありません。そもそも、無事に取り戻したいと考えているような人物であれば、気が立っている両軍がいがみ合う場所で人質交換をして不測(ふそく)のリスクを冒す必要はありません。

むしろ戦場から離れた場所を指定して、平和裏に人質交換する方がはるかに安全で便利ではないでしょうか?三国志演義は、あえて、戦場のど真ん中で人質交換をする事で、緊迫感を盛り上げる演出効果を狙ったのでしょう。つまり三国志演義の中の人質交換は史実では見られないフィクションなのです。


春秋戦国時代の人質交換

始皇帝(キングダム)

 

ではリアルな三国志の時代に人質交換のような事態はあったのでしょうか?三国志の時代では見られないものの、春秋戦国時代の記録には、人質交換の記載があります。秦始皇本紀の紀元前243年の頁には、

 

始皇帝四年、蒙驁(もうごう)(ちょう)有詭(ゆうき)を抜く。三月軍()む。秦の質子(しちし)趙より帰る。(ちょう)の太子、出でて国に帰る。

幕末 魏呉蜀 書物

 

このような記録があり秦から趙に送られていた人質が帰国し、それを見届けてから趙の太子が秦を出て帰国しています。

春秋戦国時代は、七つの国が攻防を繰り広げますが、お互いの安全保障の為に公子を送り合っていました。そして、不幸にも双方で戦いが起きると、人質として置かれている公子が報復で殺されるという哀しい事が起きました。

 

覇を競う乱世に新たな秩序を打ち立てた曹操の生涯
曹操孟徳


三国志の人質パターン

呂布のあっけない最後

 

三国志の時代に人質交換の話はありませんでしたが、人質自体は三国志の時代ではごくありふれた存在でした。春秋戦国時代に劣らない戦乱の時代だった三国志の時代では人質のパターンも多種多様です。そこでここでは、三国志に登場する人質パターンについて考えてみます。

馬騰

 

・安全保障人質・・・馬騰(ばとう)馬鉄(ばてつ)のような西涼軍閥は曹操(そうそう)の命令で(ぎょう)に遷り関中には、馬超(ばちょう)が残りますが、後に韓遂(かんすい)と組んで反乱を起こしたので馬騰の一族は鄴で見せしめに誅殺されます。後年の諸葛誕(しょかつたん)も司馬氏に叛く時に呉に人質として末子の諸葛靚(しょかつせい)呉綱(ごこう)を派遣して援軍を要請しています。

諸葛誕は反乱に失敗し、一族はすべて誅殺されますが、呉に派遣した諸葛靚は呉で生き残って仕官し孫晧(そんこう)政権で右将軍にまで出世しました。

 

・戦争捕虜・・・・関羽(かんう)于禁(うきん)夏侯惇(かこうとん)のように戦争で敗れて敵に捕まった状態です。一番不安定な立場ですが、関羽は手柄を立てて解放され、于禁は関羽が敗れて呉に救出され、当時、呉が魏に臣従していた事から魏に送還されました。

夏侯惇は、身代金目当てで呂布の部下に捕虜にされますが、韓浩が身代金要求に応じずに呂布の部下を攻撃したので救助されます。

于禁を虐める曹丕

 

・造反誘導人質・・・魏呉蜀(ぎごしょく)は、それぞれ投降してきた武将を優遇する事で、さらなる造反を呼び起こそうとしていました。代表的な武将には、関羽を裏切って魏に降った孟達(もうたつ)や、呉に降った麋芳(びほう)士仁(しじん)、司馬氏の台頭を恐れて蜀に降った夏侯覇(かこうは)がいます。

孟達

 

曹丕は個人的にも孟達を気に入り、同じ(れん)に乗せ散騎常侍(さんきじょうじ)建武将軍(けんむしょうぐん)に任じています。

蜀に降った夏侯覇は、劉禅の皇后張氏の一族だった事もあり、車騎将軍に任命されました。

自信のある夏侯覇

 

・政治的人質・・・婚姻関係や、政治上の理由から要人を抑留するタイプの人質です。政治上の人質は袁術(えんじゅつ)が得意としていて、劉虞(りゅうぐ)の息子の劉和(りゅうわ)抑留(よくりゅう)したり、太傅(たいふ)録尚書事(ろくしょうしょじ)の要職にあった馬日磾(ばじつてい)を抑留して軍師になるように強要し憤死させています。

袁術と献帝

 

孫権(そんけん)の妹で劉備に嫁いだ孫夫人も、彼女を通じて劉備に影響力を行使しようと考えた孫権の政治的人質であり、法正は孫夫人の害が甚だしい事を諸葛亮に告げています。

 

三国志の人質は、大体この4パターンに集約されます。


肩身が狭かった人質

ホウ徳(龐徳)

 

自分の意思でもやむをえない事情でも人質は厳しい状態に置かれました。

何より、投降された側にとっては人質は昨日まで味方を殺した憎い敵ですから、良い顔をするわけがありませんでした。また、孟達のように曹丕に気に入られた人物でも曹丕が死んでしまうと、それまでスルーできた周囲の嫉妬(しっと)に襲われて、身の置き場が無くなります。

実際、孟達は曹丕の死後に身の置き場に困り、諸葛亮に内応しようとして司馬懿に討たれています。

孟達を討伐する司馬懿

 

孟達のように誅殺されなくても、馬超の配下であった龐徳は、親戚が蜀に仕えていた事もあり、常に蜀に寝返るのではないかと味方から不審の目で見られ続け、麋芳や于禁は呉の虞翻に散々に嫌味を言われ虐められました。夏侯覇のように、劉禅と縁続きであった為に、特に虐められる事もなく、天寿を全うした人もいますが、そのような人は例外であると言えます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

三国志演義のように、戦場で人質交換をする事はありませんでしたが、こと人質の有用性については、史実の三国志でも十分に認識されていました。

離合集散(りごうしゅうさん)極まりない戦乱の世においては、人質を置いて離反されないように備えるのが一番重要だったのです。

 

参考文献:正史三国志

 

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