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流浪時代の劉備を支えた蜀のバイプレーヤーを一挙ご覧あれ!


 

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関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

脇役・・・・・・最近では「バイプレーヤー」と言うみたいですけど。蜀(221年~263年)の主役級のキャラクターと言えば、劉備(りゅうび)関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)諸葛亮(しょかつりょう)・・・・・・

 

土いじりをする劉備

 

名前を出したらキリが無い。しかし、どんな国も会社も主役ばかりで成り立っていません。劉備には流浪時代から支えてきてくれた、優秀なバイプレーヤーがいてくれました。彼らも数えたらきりがありません。そこで今回は劉備を流浪時代から支えたバイプレーヤである簡雍(かんよう
)
陳到(ちんとう
)
麋竺(びじく
)
を正史『三国志』をもとに紹介します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「劉備 流浪」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

関連記事:【劉備の初軍師・陳羣】劉備が逃げられた陳羣と徐庶には共通点があった

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備と同郷の友 簡雍

 

簡雍は劉備と一緒の幽州涿郡の出身であり、中平元年(184年)の黄巾の乱から従っていました。つまり、劉備とは同郷の友です。ちなみに簡雍は改名であり、本名は耿雍(こうよう)と言います。

 

おそらく血縁は遠いですけど、後漢(25年~220年)建国功臣1人である耿純(こうじゅん)の末裔です。耿純が封建されたのは冀州ですけど、幽州は冀州と隣接しています。子孫がいてもおかしくありません。

 

改名の理由は幽州の人々が「耿」を「簡」と発音していたからでした。若い時から劉備とは親しい間柄でしたが、同じ盧植門下だったのかは分かりません。

 

だが、かなりのVIP待遇の人物だったことが正史『三国志』には記されています。劉備が登場している公の席でも平気な顔で足を投げ出したり、諸葛亮以下に対しても椅子を占領して横になり話を始めたりするなど自分勝手な振る舞いをしていたようです。

 

性格は傲慢・無頓着。良く言えば、どっしりと構えており心の広い人。悪く言うと、ただの偉そうで気遣いも出来ない人。現代の女性から見れば、彼氏にはしたくないタイプでした。劉備が益州に来た時に劉璋の話し相手になったのが簡雍です。劉璋は簡雍のことを気に行って、すっかり意気投合します。劉璋が降伏する時も説得の使者として訪れたのが簡雍でした。

 

簡雍がいつ亡くなったのかは不明ですが、建安24年(219年)の劉備の漢中王就任時期の記録が残されていないので、その時期には亡くなっていたと推測されます。

 

劉備時代不遇の武将 陳到

 

陳到(ちんとう)は豫州刺史となった興平元年(194年)に劉備に仕えます。残念ながら正史『三国志』に列伝は存在せず、楊戯(ようぎ
)
という人物が執筆した『季漢輔臣賛』と後世のわずかな地方史にしか名前が残されていません。

 

待遇は趙雲に次ぐ人物だったようですが、出世は劉備の死後であったらしく、この点も趙雲と酷似しています。史料が少ないので劉備に嫌われていたのか、ただの年功序列のサラリーマン武将なのか判断出来ません。

 

『華陽国志』によると、建安4年(226年)までは存命していることが確認がとれていますが以降は不明です。おそらく、諸葛亮の(220年~265年)への北伐には参加していないと思います。

 

陶謙と劉備のパトロン 麋竺

麋竺と劉備

 

麋竺の家は代々資産家であり、小作1万人を抱えていました。後に徐州の長官である陶謙(とうけん)からスカウトを受けて仕えます。陶謙は麋竺(びじく
)
にパトロンになってもらいました。

 

陶謙と劉備

 

興平元年(194年)に陶謙が死去すると、麋竺はそのまま陶謙の客将だった劉備に自然と仕えます。また、妹を劉備と結婚させます。セレブがパーティーに加わり、その妹も手に入れる。劉備はまさに勝ち組同然!

 

呂布と劉備

 

だが、劉備は呂布曹操(そうそう)に敗北、袁紹(えんしょう)劉表(りゅうひょう)に保護を求めるなど負け組の戦いしか出来ない。たぶん逃げている間に麋竺の財産は尽きたと思います。

 

劉備に降伏する劉璋

 

やがて劉備が劉璋(りゅうしょう
)
を討ち蜀を得ると麋竺への待遇は諸葛亮に次ぐものになります。古くから仕えている関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)簡雍(かんよう
)
よりも待遇が良い理由は、やはりパトロンだったからでしょう。普通に考えてお礼をするのが、人としての常識ですね。劉備はしっかりとそれをしているので偉いです。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

ところが、麋竺にも悲劇が訪れます。建安24年(219年)に曹仁を攻めていた関羽でしたが突然、同盟国である呉(222年~280年)の裏切りにあって戦死。原因の1つは麋竺の弟の麋芳が呉に降伏したからでした。麋芳も麋竺と同じ時期から劉備に仕えていましたが、関羽と麋芳は以前から不仲でした。

 

おそらく、関羽は麋芳が商人出身というので卑しく見ていたのでしょう。儒教で商売=恥ずかしいという考えがあるからです。麋竺は関羽の死と弟の降伏を聞くと、自分を罰することを願い出ました。だが、劉備はそれに関しては一切罪に問いませんでした。

 

劉備の好意が逆に心にグサリと響いたのでしょう。心の病をおった麋竺は1年程度で世を去りました。劉備の皇帝即位した章武元年(221年)は存命しているので、同年に亡くなったと推測されています。

 

三国志ライター 晃の独り言 横山光輝『三国志』のライターが存在していた?

三国志ライター 晃

 

ネット検索していたら、横山光輝『三国志』のライターが、かつて100円ショップのダイソーで売られていたという情報を発見!どうやら全12種類存在していたようです。劉備・関羽・張飛・諸葛亮・曹操・呂布・馬超黄忠周瑜・・・・・・

 

残りはネットの画像が見づらくて分かりませんが、おそらく趙雲、孫権、司馬懿じゃないでしょうか?確か筆者の近所のダイソーには売っていませんでした。読者の皆さんの近所のダイソーは置いていましたか?

 

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※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています

ここのダイソーに横山光輝『三国志』ライターがあったと覚えている人、また自分は持っているという人はコメントをください!

 

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