太傅の司馬懿を洛陽から追放した曹爽は、取り巻きの何妟、丁謐、鄧颺、李勝に政治を任せきりました。曹爽の一派はすぐに堕落し政治を私物化したので急激に人心を失っていきます。
そんな折、西暦243年10月、蜀の司令官だった蔣琬は、政変で駐屯していた漢中から撤退し涪県に駐留しました。これを知った曹爽は、「漢中が手薄な今こそ蜀を征伐する好機だ」と捉え丁謐・鄧颺・李勝も賛成します。かくして曹爽は自ら大軍を率い西方に出撃します。世に言う興勢の役の始まりです。
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この記事の目次
手柄を焦った曹爽は司馬懿の反対を振り切る
曹爽と取り巻きが急遽決めた蜀征伐に司馬懿は猛反対しました。
「漢中の兵力が減った程度で秦嶺山脈を越えて大軍を蜀に送るのは無謀です。太祖でさえ、漢中の険阻さには手を焼き補給が続かず撤退された程であり、蜀が大敗した隙を突かねば勝利はおぼつかないでしょう」
司馬懿は歴戦の経験から、無謀な出兵を諫めますが、四人組は口先だけなら司馬懿よりも達者でした。
「太傅殿には釈迦に説法ですが、蜀からの増援到着前に兵の数で圧倒すれば、漢中征服程度は容易い事です。たとえ蜀を完全に征伐できずとも、漢中さえ握ってしまえば隙を見て成都を一突きできるではありませぬか?」
いかに司馬懿が歴戦の強者でも、当時の洛陽には、過去の勇者はなく何晏が登用した口先だけの連中が蔓延し司馬懿の熱弁をせせら笑うだけでした。(ダメだ、、この俗物共は、一度痛い目を見ぬと分らぬか・・)
司馬懿は観念し、代わりに次男の司馬昭を夏侯玄の副将として従軍させる事にします。
「俗物共に陛下の赤子を無駄に殺させるわけにはいかぬ・・昭よ折を見て退却を進言せよ、この戦は必ず我が軍の大敗だ」
「お任せを父上・・」
司馬昭は、こうして蜀征伐に出発していきました。
魏の侵攻に右往左往する蜀
西暦244年3月、曹爽は都督雍涼二州諸軍事の夏侯玄・雍州刺史の郭淮らを伴い、歩兵・騎兵あわせて十万余りの軍の指揮を執って漢中に侵攻を開始しました。蜀でも突如として魏から十万の大軍がやってきたことで諸将が狼狽えます。
諸葛亮の最期の北伐から十年、多くの人々は、いつの間にかこの平和が永遠に続くと思い込んでいました。漢中の兵力は3万に過ぎず主力兵力は後方の涪に後退しているのです。
「もう漢中はダメだ、ここは放棄して漢城・楽城まで後退して成都からの援軍を待とう」
久しぶりの実戦で武将たちはあわてふためき、少しでも成都に近い場所に後退しようとします。しかし、蜀にはまだ勇者が残っていました。街亭で襲い掛かる張郃の大軍をたった1000人の兵で威圧し蜀軍撤退の時間を稼いだ王平です。
王平は興勢山で魏軍を迎え撃つ
漢中に駐屯していた鎮北将軍、督漢中王平は、安易な撤退に反対します。
「一時的でも漢中が奪われてしまうのは危険だ。漢中を抜きに成都防衛は出来ぬ。そうであればこそ、丞相は漢中に常に主力を置き自ら指揮されたのだ。それに漢城・楽城まで下がり、それでも涪城からの援軍が間に合わねばもう成都まで後がない」
王平の意見を受けて左護軍の劉敏も発言します。
「漢中には未だ人民が野におり穀物も放置されたままだ。これを賊に与えるのは、奴らの補給を容易にしてしまうだろう。漢中を放棄してはならない・・」
「それでは、鎮北将軍はどうすべきとお考えですか?」
王平は敢えて軍を前進させ、魏軍の進軍経路である駱谷道の麓の興勢山へ劉敏と杜祺を派遣して陣地を構築し成都からの援軍を待つ作戦を取ります。秦嶺山脈は山頂に降った雨が大地を削って出来た無数のクリークが入り組んで天然の迷路になり、兵を伏せるには好都合の地形だったのです。
さらに王平は劉敏に命じ、軍勢の数を魏軍に錯覚させるために百里余りにわたって多数の旗幟を盛んに立てさせ、自身は後方で支援に当たり、魏の別動隊が黄金谷を通過した時には王平自ら迎撃する態勢を整えます。
興勢山で完全に足止めされる曹爽
王平の予想通り魏軍は駱谷道を通ってきて、秦嶺山脈の隘路に立てこもった蜀軍により進軍を完全に阻まれます。劉敏と杜祺は粘り強く抵抗しつつゲリラ戦法に終始し、魏軍の損害は大きくなっていきました。
また、曹爽は物資補給のために周辺の氐・羌族から食糧を徴発した上に補給の義務まで課します。しかし、秦嶺の険しい地形に阻まれ補給部隊には少なからず犠牲者が出てしまい、氐・羌族の魏に対する感情は激しく悪化します。
やがて、10万の大軍を維持するための補給が維持できなくなった間に涪城と成都から援軍が到着、成都の援軍は大将軍の費禕が率いていて、意気上がる蜀陣営は強固になり、戦いは泥沼化しました。
蜀の王林の夜襲を跳ね返す司馬昭
その頃、司馬昭は征西将軍夏侯玄の副官として、興勢山まで進出してきました。当時、蜀には王林という北伐にも従軍した古強者がいて、ひとつ司馬懿の次男坊の首を挙げてみせようと劉敏の許可を得て、夜中に司馬昭の陣に夜襲を掛けました。しかし、用心深い司馬昭は陣営を堅く守備して王林の攻撃を跳ね返し、逆に手痛い打撃を加えたのです。魏軍にとっては、これが興勢の役の唯一の勝利でした。
「うぬぬ、、仲達の息子め、、穴に籠るのだけは得意と見えるわ」
王林は奇襲の失敗を悟り、歯がみして退却してきました。
楊偉の大論陣
敗北が明らかにも関わらず、危機意識がない曹爽と取り巻きは、だらだらと戦いを引き延ばします。陣営では食料も飲み水も医薬品も乏しく戦に苦しむ将兵の悲痛と怨嗟の声は絶える事がありませんでした。
楊偉は馮翊の人でしたが、巨大な建築物を建て続ける曹叡に堂々と諫言した硬骨漢でした。これ以上の猶予はならじと危機感のない曹爽に諫言します。
「大将軍!此度の征伐は失敗です。直ちに陣を畳んで帰国すべきです。ぐずぐずしていては、いつ賊共が攻勢に転じるか、分かったものではありませんぞ」
これに対し、曹爽の取り巻きの鄧颺が激しく反論します。
「世英殿、血迷われたか?畏れ多くも天子の軍を率いておる我らが負けるハズはない。まもなく賊共は、我らの威光に恐れ慄き漢中は自ずから開く、焦る事は御座らぬ」
「漢中が自ら開くだと?血迷ったのはお主であろう!耳を澄ましてみよ、戦に倦み負傷に泣き、飢えと渇きに苦しむ兵の声が聞こえぬか?これのどこが堂々たる天子の軍であるか!!そもそも、此度の戦は、貴様らのような軽佻浮薄の徒が大将軍の目を晦まし引き起こしたもの、天子の御意志とは片腹痛いわ」
李勝「ぶ、、無礼な!これは聞き捨てならんぞ」
「無礼ですむなら安きものじゃあ!大将軍!鄧颺と李勝こそは国を亡ぼす佞臣奸賊!今、この場で斬って棄て、直ちに撤退の下知を」
上座の曹爽は、お気に入りの鄧颺と李勝を批判され不機嫌になり、酒宴を切り上げて幕舎に引きこもってしまいました。
魏軍は命からがら長安へ逃げ戻る
司馬昭は、楊偉の諫言に対する曹爽の態度から見て、曹爽が内心長安に帰還したがっている事を感じ取り、主将の夏侯玄に現状の危機を訴え退却を進言します。さらに司馬昭は先鋒の郭淮にも退却を相談。夏侯玄と郭淮から撤退を進言された曹爽は意地を張り通す事も出来ず、西暦244年5月ついに退却を決断します。
これを知った費禕は、積極的に追撃軍を繰り出し、曹爽を苦しめますが、名将郭淮の巧みで迅速な退却戦に阻まれ、遂に魏軍を壊滅させるまでには至りませんでした。しかし、無残な敗北は、洛陽における曹爽の求心力を回復不可にまで落としてしまいます。一方で興勢の戦いは、北伐終結から十年で平和ボケしていた蜀の人士に衝撃を与え、一時は鳴りを潜めていた北伐論が再浮上する切っ掛けとなります。
また、的確な戦況判断で戦いを勝利に導いた王平は、鄧芝や馬忠と共に「北の王平」「東の鄧芝」「南の馬忠」と並び称されるほどに名声が高まったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
曹爽没落の大きな原因になった興勢の役について書いてみました。実は三国志演義には興勢の役の記述はなく、すぐに司馬懿のクーデターに話が飛んでいますが、全訳三国志演義では、曹爽一派をただのモブキャラにするに忍びなく、正史を引き合わせながら演義っぽく脚色してみました。では、今回はこの辺で、続きは次回のお楽しみ!!
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