秦檜よりもスゴイ売国奴?張松と法正ここにあり

2020年5月4日


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

秦檜(しんかい)

 

売国奴(ばいこくど
)
。国を売って利益を得る人を指します。中国で有名な売国奴は南宋(なんそう
)
(1127年~1279年)の宰相(さいしょう)である秦檜(しん かい
)
です。

秦檜(南宋の政治家)

 

秦檜は敵対していた(きん)(1115年~1234年)と密約を交わして、和議(わぎ)を結びました。その和議の結果、将軍の岳飛(がく ひ)が犠牲になります。秦檜の売国奴話は後世の歴史家による脚色(きゃくしょく
)
と言われており、今日では信用されていません。

法正と張松

 

ただし益州(えきしゅう
)
劉璋(りゅう しょう
)
に仕えていた張松(ちょう しょう
)
法正(ほう せい
)
は主人を劉備(りゅうび)に売った真の売国奴です。しかし、『三国志演義』の影響のために、それが感じにくいのです。今回は張松・法正の売国話について紹介します。

 

自称・皇帝
当記事は、
「張松 法正」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



張松とは?

張松

 

張松という人物は正史『三国志』・『後漢書(ごかんじょ
)
』にも列伝は無しです。兄は張粛(ちょう しゅく)であり兄弟そろって益州(えきしゅう
)
長官の劉璋(りゅう しょう
)
に仕えていました。

歴史書をつくる裴松之

 

正史『三国志』に注を付けた裴松之(はい しょうし
)
が史料として採用している『益部耆旧雑記(えきぶききゅうざっき)』によると、ブサイクだったことが記されています。ちなみに、兄の張粛はイケメンでした。

 

劉璋にアドバイスをする張松

 

張松の仕事は別駕(べつが)です。正式名称は別駕(べつがじゅうじ)。別駕とは簡単に言えば家老(かろう
)
。主人が領地を視察する時に別の駕籠(かご)でついていくから、別駕と呼ぶのです。だが、張松は主人の劉璋が大器でないと思い見限っていました。

 

劉璋の失政

劉焉

 

益州は劉璋の父の劉焉(りゅう えん
)
が治めていましたが興平元年(194年)に劉焉は病死。息子の劉璋が後を継ぎます。

 

五斗米道(はじめての三国志)

 

劉焉は生前、益州で布教していた宗教団体「五斗米道(ごとべいどう
)
」の対応に苦労していました。五斗米道とは張角(ちょう かく
)
が創始した「太平道(たいへいどう
)
」に類似した団体でした。劉焉は五斗米道とは争わずに、平和的交渉を行っていました。

 

五斗米道の教祖・張魯

 

劉璋も父と同様の対応をするべきでしたが、五斗米道の総大将である張魯(ちょう ろ
)
の母と弟を殺害して関係を悪化させます。

 

張松、曹操に派遣される

曹操にキレて劉備を贔屓する張松

 

五斗米道に手を焼いた劉璋は曹操(そうそう)に助けを求めることにしました。そこで最初に張松の兄である張粛(ちょう しゅく)を派遣。益州が曹操に敵対しない姿勢を見せました。

 

曹操

 

喜んだ曹操は張粛を好漢郡(こうかんぐん)太守(たいしゅ
)
に任命します。ところが、別に張魯に対する援軍を送ることはありませんでした。建安13年(208年)に曹操は荊州(けいしゅう)劉表(りゅう ひょう
)
が亡くなったことを機会に荊州を制圧。劉璋は再び使者を曹操に派遣します。

 

三国志演義_書類

 

この時に派遣された使者が張松でした。おそらく張松はこの時、曹操に対して益州の情報を流す予定だったのでしょう。ちなみに『三国志演義』では建安16年(211年)に派遣されたことになっていますが、これは虚構です。物語を読みやすくするために創作したと考えられます。時系列が乱れていたら、読みにくいですからね・・・・・・

 

張松、劉備の所に行く!

曹操と張松

 

話を正史に戻します。派遣された張松は残念なことに官位を1つも頂けずに帰ることになりました。当時の曹操は孫権(そんけん)との対決で忙しかったから、益州(えきしゅう
)
の田舎者の相手なんてしていられません。

 

曹操には服従しているが内心キレている張繍

 

雑に扱われた張松(ちょうしょう)は「田舎なめるなよ!」と激怒!何もしないで帰るのも悔しいので、張松は長坂(ちょうはん)で曹操に敗北した劉備の所に行きました。当時の劉備は夏口(かこう)に駐屯していたので、そこに向かったのでしょう。

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

-三国志の雑学
-,