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この記事の目次
張松はなぜ劉備を選んだ?
張松は別に劉備の所に行く必要は無かったと私は考えています。おそらく自分を認めてくれる人だったら、誰でも良かったのでしょう。
建安13年(208年)当時の群雄は曹操・孫権・劉備・韓遂・士燮・劉璋・張魯・・・・・・曹操は訪れて人物像を確認したので除外。孫権は曹操との決戦で準備中なので、おそらく会ってもらえないはず。韓遂と士燮は土地が遠すぎてすぐに行ける距離ではない。敵対勢力である張魯は当然論外。
そうなると自然と劉備を選ぶしかなかったのです。
歓迎される張松と法正
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用している『呉書』という書物によると劉備と面会した張松は、劉備から手厚い歓迎をされます。
その後、張松の部下である法正も劉備に会いにいったところ、同じような歓迎を受けました。当時の劉備は孫権との同盟で忙しい時期。それなのに客人に対してしっかりとした対応をしたのでした。
張松と法正は劉備の心意気に感動して、彼を益州の新しい主にする決断をします。劉備と張松・法正の間にどのような密約があったのか史料は語っていませんが、2人は劉備に益州の地図を差し出しました。この話は『三国志演義』も採用しており、ご存知の読者の皆様もいると思われます。
『呉書』の真偽
もちろん『呉書』の内容を疑う人もいます。南宋(1127年~1279年)の朱熹は『通鑑考異』という書物で、張松と法正が劉備に地図を与えたことが『呉書』だけのみに記載されており正史『三国志』に詳細な内容が無いことから否定的にとらえています。
だが、「正史=内容に信頼がおける」という理論はありません。そもそも密約を細かく記す史料は存在しません。あったとしたら、それは「史料」ではなく「小説」です。
一例を挙げると、『史記』の始皇帝の死から間もない頃の話。始皇帝死後、宰相の李斯と宦官の趙高がグルになって始皇帝の遺言をでっちあげ、息子の扶蘇と将軍の蒙恬を死に追いやりました。
ところが、この話は李斯と趙高の密約。つまり、門外不出の内容です。それなのに、話の起承転結がしっかりとしており、読者に面白みを与えます。この理由から始皇帝の遺言偽造の話は小説であると現在では言われています。
それでは『呉書』は信頼に足る史料なのでしょうか?実は近年、『呉書』の史料的価値については研究されており信ぴょう性があると結論づけられています。
だから、私は『呉書』の内容は決してウソではないと思っています。張松と法正は劉備に地図を献上すると、約4年に渡り秘密裏に交渉を続けたのだと考えています。
張松の最期と羽振り良き法正
建安17年(212年)に劉備は五斗米道の張魯との戦いに備えるために、益州に行きます。張松・法正は劉備との交渉を何年も続け、主人の劉璋には曹操と縁切りして劉備を味方にすることを説得。
納得した劉璋は劉備を益州に迎え入れました。劉璋の部下は何人も反対しますが、劉璋は全く聞き入れません。王累という部下は門からぶら下がって劉璋を引き止めますが、効果はゼロ!
劉備の軍師である龐統は、劉璋を暗殺して益州を乗っ取ることを提案しますが劉備が反対したので頓挫になりました。龐統と劉備の協議の結果、用事が出来たので荊州に帰るフリをして益州を乗っ取る計画を立てます。しかし、この計画の詳細が張松まで伝わっていませんでした。本当に荊州に帰ると勘違いした張松は、劉備を引き止める手紙を書きます。
だが、この手紙は張松の兄の趙粛に見つかりました。反逆罪は死刑です。巻き添えはご免だと思った趙粛はすぐに密告。捕縛された張松と妻子は処刑されました。張松の野望は法正に引き継がれます。建安19年(214年)に劉璋が劉備に降伏すると、法正は羽振りをきかせます。それは良い方向とはいえません。
法正は少しでも恩のある人は莫大なお礼をしますが、自分を粗末に扱った人には徹底的な報復で返します。あまりにもひどいので訴えた人がいましたが、諸葛亮は「今の劉備様があるのは法正のおかげだ。処罰することは出来ない・・・・・・」と何も出来なかったそうでした。
三国志ライター 晃の独り言
張松は劉備が皇帝になる姿を見ることは叶いませんでした。兄の趙粛が保身に走らなければ、蜀(221年~263年)の重鎮として働いたかもしれません。
張松が生きていたら孟達が魏(220年~265年)に亡命することもなかったし、彭羕が劉備への悪口を言っても死罪になることは無かったと私は思っています。
読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)
・満田剛「韋昭『呉書』について」(『創価大学人文論集』16 2004年)
・李殿元・李紹先(著) 和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)
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