秦檜よりもスゴイ売国奴?張松と法正ここにあり

2020年5月4日


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檜よりもスゴイ売国奴(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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張松はなぜ劉備を選んだ?

劉備と張松(ちょうしょう)

 

張松は別に劉備の所に行く必要は無かったと私は考えています。おそらく自分を認めてくれる人だったら、誰でも良かったのでしょう。

 

司馬徽と曹操

 

建安13年(208年)当時の群雄は曹操孫権劉備韓遂(かんすい)士燮(し しょう
)
劉璋張魯・・・・・・曹操は訪れて人物像を確認したので除外。孫権は曹操との決戦で準備中なので、おそらく会ってもらえないはず。韓遂と士燮は土地が遠すぎてすぐに行ける距離ではない。敵対勢力である張魯は当然論外。

 

劉備

 

そうなると自然と劉備を選ぶしかなかったのです。

 

歓迎される張松と法正

呉志(呉書)_書類

 

正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用している『呉書(ごしょ)』という書物によると劉備と面会した張松は、劉備から手厚い歓迎をされます。

 

法正

 

その後、張松の部下である法正も劉備に会いにいったところ、同じような歓迎を受けました。当時の劉備は孫権との同盟で忙しい時期。それなのに客人に対してしっかりとした対応をしたのでした。

 

法正と劉備

 

張松と法正は劉備の心意気に感動して、彼を益州の新しい主にする決断をします。劉備と張松・法正の間にどのような密約があったのか史料は語っていませんが、2人は劉備に益州の地図を差し出しました。この話は『三国志演義』も採用しており、ご存知の読者の皆様もいると思われます。

 

『呉書』の真偽

法正、劉璋、劉備

 

もちろん『呉書』の内容を疑う人もいます。南宋(1127年~1279年)の朱熹(しゅ き
)
は『通鑑考異(つがんこうい)』という書物で、張松と法正が劉備に地図を与えたことが『呉書』だけのみに記載されており正史『三国志』に詳細な内容が無いことから否定的にとらえています。

 

正史三国志_書類

 

だが、「正史=内容に信頼がおける」という理論はありません。そもそも密約を細かく記す史料は存在しません。あったとしたら、それは「史料」ではなく「小説」です。

 

史記_書類_劉邦と始皇帝

 

一例を挙げると、『史記(しき)』の始皇帝(しこうてい)の死から間もない頃の話。始皇帝死後、宰相の李斯(り し)宦官(かんがん)趙高(ちょう こう
)
がグルになって始皇帝の遺言をでっちあげ、息子の扶蘇(ふそ)と将軍の蒙恬(もう てん
)
を死に追いやりました。

 

ネズミで人生を変えた李斯

 

ところが、この話は李斯と趙高の密約。つまり、門外不出の内容です。それなのに、話の起承転結がしっかりとしており、読者に面白みを与えます。この理由から始皇帝の遺言偽造の話は小説であると現在では言われています。

 

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

それでは『呉書』は信頼に足る史料なのでしょうか?実は近年、『呉書』の史料的価値については研究されており信ぴょう性があると結論づけられています。

 

法正

 

だから、私は『呉書』の内容は決してウソではないと思っています。張松と法正は劉備に地図を献上すると、約4年に渡り秘密裏に交渉を続けたのだと考えています。

 

張松の最期と羽振り良き法正

二刀流の劉備

 

建安17年(212年)に劉備は五斗米道の張魯との戦いに備えるために、益州に行きます。張松・法正は劉備との交渉を何年も続け、主人の劉璋には曹操と縁切りして劉備を味方にすることを説得。

 

劉璋

 

納得した劉璋は劉備を益州に迎え入れました。劉璋の部下は何人も反対しますが、劉璋は全く聞き入れません。王累という部下は門からぶら下がって劉璋を引き止めますが、効果はゼロ!

 

龐統

 

劉備の軍師である龐統(ほうとう)は、劉璋を暗殺して益州を乗っ取ることを提案しますが劉備が反対したので頓挫になりました。龐統と劉備の協議の結果、用事が出来たので荊州に帰るフリをして益州を乗っ取る計画を立てます。しかし、この計画の詳細が張松まで伝わっていませんでした。本当に荊州に帰ると勘違いした張松は、劉備を引き止める手紙を書きます。

 

法正

 

だが、この手紙は張松の兄の趙粛(ちょう しゅく)に見つかりました。反逆罪は死刑です。巻き添えはご免だと思った趙粛はすぐに密告。捕縛された張松と妻子は処刑されました。張松の野望は法正に引き継がれます。建安19年(214年)に劉璋が劉備に降伏すると、法正は羽振りをきかせます。それは良い方向とはいえません。

 

法正

 

法正は少しでも恩のある人は莫大なお礼をしますが、自分を粗末に扱った人には徹底的な報復で返します。あまりにもひどいので訴えた人がいましたが、諸葛亮は「今の劉備様があるのは法正のおかげだ。処罰することは出来ない・・・・・・」と何も出来なかったそうでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

張松は劉備が皇帝になる姿を見ることは叶いませんでした。兄の趙粛が保身に走らなければ、蜀(221年~263年)の重鎮として働いたかもしれません。

 

孟達と劉備

 

張松が生きていたら孟達(もう たつ
)
(220年~265年)に亡命することもなかったし、彭羕(ほうよう)が劉備への悪口を言っても死罪になることは無かったと私は思っています。

 

読者の皆様はどう思われますか?

 

※参考文献

・高島俊男『三国志 人物縦横断』(初出1994年 のち『三国志きらめく群像』ちくま文庫 2000年)

・満田剛「韋昭『呉書』について」(『創価大学人文論集』16 2004年)

・李殿元・李紹先(著) 和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)

 

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法正

 

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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