後漢(25年~220年)の英雄は董卓・袁紹・袁術・呂布・劉璋・・・・・・頭に思い浮かぶ人々は、こんなのばかりです。
しかし忘れてはいけない人がいます。その名は劉表。この人は荊州の長官であり、流浪の劉備を優遇してあげた人物でした。『三国志演義』では生涯中立を保ち、争いを好まなかった印象が強いです。今回は正史『三国志』をもとに劉備のパトロンであり、また諸葛亮・龐統と親戚関係に当たる劉表について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
「劉備 龐統」
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罪人から大出世する劉表
劉表は兗州山陽郡高平県の出身であり、身長は192センチのイケメンでした。若い時は儒学の勉強をしており、「八俊」と呼ばれていました。八俊というのは後漢末期の官僚の間で使用されていた官僚のランクです。上から「三君」・「八俊」・「八顧」・「八及」・「八厨」。だが史料によっては「八顧」・「八交」・「八及」など呼称が違います。
おそらく劉表に対してのランクは、昔から定まっていなかったのでしょう。だから史料によって違いがあるのです。近年の研究によると後漢には「三君」・「八俊」・「八顧」・「八及」・「八厨」などのランクは存在しなかったそうです。
話を戻します。熹平5年(176年)に劉表は友人の張倹の逃亡を助けました。張倹は政府を批判していたことから追われていたのです。劉表も犯人隠匿罪により身を隠す存在となります。
ところがそんな生活も終わりを迎えます。中平元年(184年)に張角が率いる宗教団体「太平道」が政府に対して一斉蜂起。この時に隠れていた劉表は罪を許されたのです。
孫堅の復讐
やがて霊帝は亡くなり、宮廷内は外戚の何進と宦官による政治闘争が勃発。結果は何進が呼び寄せた董卓が政権を奪取する漁夫の利で幕を閉じます。
初平元年(190年)に董卓の専横に腹を立てた諸侯は洛陽に向けて進撃。この時に出兵した孫堅は進軍途中で荊州長官である王叡を殺します。
王叡はかつて、孫堅と一緒に反乱討伐を行った時に無礼な態度をとったことから、そのことを根に持った孫堅から攻撃を受けたのでした。
地獄の荊州
さて、王叡が殺害されたことで荊州長官が不在状態となりました。そこで白羽の矢が立ったのが劉表でした。早速行ってみた劉表でしたが到着してみると、荊州はとんでもないことになっていました。
あちこちで「宗賊」が暴れ回っていました。宗賊というのは一族郎党、村単位でグルになり悪いことをする連中です。
荊州は劉備が保護してもらった時のように平和な状況ではありません。まさに『北斗の拳』のような世界です。ましてや劉表は兗州出身のよそ者。荊州の人間が簡単に言うことを聞いてくれるはずがありません。
荊州統治作戦
そこで劉表は自分と一緒に赴任した蒯越の作戦を用いることにしました。彼は荊州出身の官僚であり、かつては大将軍の何進に仕えていた経歴の持ち主です。
ある日、蒯越は宗賊を呼び出しました。相手が劉表だったら来ませんが、地元出身の蒯越に呼ばれたら行かないわけにはいきません。仕方なく行った宗賊でしたが、待ち伏せていた兵士により全員殺害。
最初は暴力で事態を収拾した劉表でしたが、その後はすぐに穏便に済ませました。襄陽に政治拠点を構えるとそこの有力者である蔡瑁の次姉を娶ります。
蔡瑁と聞けば『三国志演義』の影響のせいで劉備や劉琦を殺そうとしたり、曹操に平気な顔で降伏した小悪党という印象があります。だが、彼と劉表との交流には意味がありました。蔡瑁は後漢の太尉である張温と親戚に該当する人物。地方・中央どちらともパイプを持っているので政略的に必要な交流だったのです。
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