かの司馬懿の息子、司馬師。この人が出てくる頃には、劉備も関羽も張飛も、諸葛亮も亡くなった後の時代になっているため、この人の印象はとても薄いままにとどまっているのではないでしょうか。
せいぜい「手術の傷跡から目玉が飛び出して死んだ」という壮絶な最期の逸話ばかりが、印象に残ってしまっているのではないでしょうか。そんなわけで、各メディアでの司馬師といえば、「司馬懿が亡くなってから晋王朝成立までの中継ぎの地味な武将」くらいの扱われ方になってしまっています。
ところが、この司馬師、整理してみると実はかなり超人的な活躍を短期間に繰り出しているのです。
この記事の目次
父親の司馬懿から最高レベルの教育をたっぷり受けていた青年期!
そもそも魏王朝が弱体化し、司馬一族が権力を握ることになったきっかけの事件、「司馬懿のクーデター」の中で、司馬師とその弟の司馬昭は、既にテキパキと手際よさを見せ、父をサポートしています。クーデターで倒された曹爽側も、「司馬懿にしてやられた!」というよりは、「司馬懿と二人の息子にしてやられた!」と感じているフシがある。
この頃には既にこの「親子三人」は、セットで周囲から警戒され、恐れられていたのではないでしょうか?
どうやら、かの司馬懿自身が、早い段階から司馬師と司馬昭という二人の息子には大変な期待をかけ、常に戦場や政治の場に連れて行って経験を積ませていた様子があります。
諸葛亮亡き後にはほとんど最強クラスの存在となっていた司馬懿に、四六時中、手取り足取り政治のノウハウを叩き込まれていたのだから、この二人の息子は武将としてはまさに最高の教育を受けていたとも言えるのではないでしょうか?
ましてその司馬懿が、一世一代の大芝居を打って出たクーデターに、最初から最後まで参加させてもらっているのですから、これは駆け出しの政治家としては大変に幸運な経験です。計略や策謀についても司馬懿の薫陶をとことん受けた、サラブレッドと言えるのではないでしょうか?
司馬師の見事な必勝パターン「知らぬ前に敵勢力を分断し各個撃破」
司馬懿亡き後の司馬師は、以下のような業績を積んでいます。
・毌丘倹の反乱を鎮圧
・諸葛誕の反乱に素早く対応
とても地味に見えるこれらの事績ですが、自分の存命中に発生した大反乱は、どれも着実に、手際よくつぶしてしまっているということになります。問題はそれだけではありません。上記の反乱者たちには、司馬一族の専横に対する怒りと疑心暗鬼から反乱に踏み切ったという共通点があります。
当然、出てくる疑問があります。「そうやって個別に反乱決起ではなく、彼らが結託して、しめしあわせて一斉蜂起していたら、さしもの司馬一族も絶体絶命だったのでは?」と。
実はこういう事例は歴史に多くあります。織田信長が、反信長包囲網を、ひとつずつ切り崩して各個撃破したように。明治政府が、佐賀の乱や萩の乱、西南戦争を、ひとつずつ切り離して冷静に各個撃破したように。
敵対勢力を結託させないように工作しつつ、決起した順番に着実につぶしていくのは、実は歴史上の英雄たちの高度な必勝パターンなのです。これを着実に実行しているという点でも、司馬師は並外れたセンスの持ち主だったのではないかと推測できるのです。
このような手際のよい人物が一線に立っていたからこそ、後代の司馬炎が、安泰な晋王朝の門出を迎えることができた、といえるのではないでしょうか?
まとめ:ぜひとも諸葛亮や関羽・張飛と対決してほしかった!
しかしこのような細かい実績をいくら強調しても、「諸葛亮孔明や、関羽・張飛コンビが生きている時代だったら、どこまでやれただろうか?」と比較されてしまうのが、三国時代の後発世代の、不遇なところ。
三国志ライター YASHIROの独り言
司馬懿の血を引き、その教育を徹底的に受け、厳しい反乱を次々に制圧して経験を積んだ司馬師。彼ならば、ひょっとしたら、諸葛亮孔明や関羽・張飛コンビが生きている時代にタイムトラベルしても、かなり互角の戦いができるのではないでしょうか?
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