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この記事の目次
曹操の文学者採用
曹操は建安13年(208年)の赤壁の戦い以降、魏(220年~265年)の建国を目指しました。そのためには新しい人材登用です。この時期の学問は書物の文章や文字に対して、様々な解釈をすることが流行していました。
曹操はそんな学問に飽きたので、新しい学問を作り出しました。それは「文学」でした。この当時の文学は軽視されており、ほとんどやる人はいませんでした。
そこで曹操は息子の曹丕・曹植と一緒に儒学ではなく文学が出来る人々を採用しました。曹丕の取り巻きである陳羣・司馬懿・呉質・朱鑠や曹植の家庭教師である楊脩や丁儀などが代表例です。
一方、古い儒学者である官僚に対して曹操は徹底的な弾圧を加えます。建安13年(208年)には孔融を処刑、建安17年(212年)には荀彧を自殺に追い込み、建安21年(216年)には崔琰を獄死させます。こうして曹操は文学者を次々と採用していきました。
曹操に反対意思を表明
その頃、盧毓は冀州で仕事をしていました。冀州では逃亡者が多く罪が妻子に連座させることが多かったのです。そこで盧毓は『詩経』・『礼記』・『春秋左氏伝』を使って、もう少し罪を軽くするように曹操にお願いしたのでした。これは曹操が行っている儒学者弾圧政策に逆らうような行動でもあります。
不思議なことに盧毓からの上奏文を読んだ曹操は怒るどころか、「書物からの引用をして筋がかなっている。立派な奴だ・・・・・・」と納得したそうです。権力者に対して媚びを売らず、筋の通った文章を書く姿勢。曹操が本当に求めた才能とは盧毓のような人物だったのかもしれません。
儒教による価値基準で選考
魏の第2代皇帝曹叡の時代に盧毓は人事担当になりました。曹叡は祖父の曹操そっくりであり、人材は才能主義でした。曹叡は知識人の人物評価が大嫌い!彼らは名声だけが独り歩きして、才能・実力が全く無いと分かっていたからでした。
そこで曹叡は盧毓に人事を任せました。しかし何を思ったのか、盧毓は名声を価値基準に採用試験を始めました。「話が違う!」と曹叡は思ったでしょうが、盧毓はガン無視で有名な儒学者の鄭沖を連れてきます。鄭沖は曹爽に仕えましたが、処刑されることはなく西晋(265年~316年)建国に関わりましたので司馬懿と関係が深いのでしょう。
だが、曹叡は名声嫌いなので拒否。仕方なく第2候補として阮武と孫邕を連れてきました。阮武は詳細なことは分かりませんが、おそらく「竹林の七賢」の阮籍の一族。孫邕は何晏と一緒に『論語集解』の編纂を行ったことが分かっています。盧毓が連れてきた人物に共通しているのは儒学を修めていることでしょう。実はこのような事例はまだあります。宰相に欠員が出たので盧毓は管寧を推薦しました。管寧は盧毓と同じ北海グループの出身であり儒学のプロです
ところが曹叡はこれを拒否。そこで盧毓は韓曁・崔林・常林を推薦しました。韓曁以外は北海グループです。ちなみに3人に共通していることは、飾り気無しの純粋な性格であること。韓曁は家族の敵討ちをしており、崔林は徳のある政治を行い、常林は苦学して儒教を修めたことから司馬懿に尊敬されていました。盧毓が名声で人を選ぶ時は、ただ有名であるという意味ではなく儒教による価値基準で選んでいたのでした。
司馬一族の側近となり人事を担当
魏の延熙2年(239年)に曹叡が亡くなると、曹芳が魏の第3代皇帝となります。曹芳は幼かったので後見人に曹爽が選ばれました。皇帝が代わると役職も交代。盧毓は人事担当の座を何晏に奪われます。何晏は曹爽の側近です。
それどころか選考の価値基準が儒学ではなく玄学になりました。玄学とは老荘思想の学問のことであり、何晏やその仲間たちが得意にしているものこうして盧毓はヒマになってしまいました。それどころか盧毓の知り合いである司馬懿も政界追放をされます。
盧毓と司馬懿は忍耐強く待たなければいけません・・・・・・状況が動いたのは魏の正始10年(249年)でした。司馬懿は曹爽が洛陽を離れている隙を突いてクーデターを決行!曹爽と何晏たちを逮捕して権力を掌握しました。
盧毓は再び復職して人事担当に選ばれます。司馬懿の死後は長男の司馬師に従い、魏の正元2年(255年)の毌丘儉の乱では後事の取りまとめを任されました。
惜しいことに彼は西晋建国を見ることは出来ませんでした。魏の甘露2年(257年)に盧毓はこの世を去りました。75歳の生涯でした。
三国志ライター 晃の独り言
盧毓は文学や老荘思想が流行した魏の時代を生きた人物でしたが、時の権力者に媚びへつらったり、流行に乗ったりせずに最後まで自分の学問である儒学を貫きました。
私は職人肌の盧毓のような人は嫌いじゃないです!ちなみに父の盧植も息子と同じで自分の学問である儒学を最後まで貫き通す姿勢がありました。盧植についてはいずれ解説いたします。
文:晃
※参考文献
・高橋康浩「范陽の盧氏についてー盧植・盧毓と漢魏交代期の政治・文化―」(『東洋史研究』75-1 2016年)
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