今回はついに、と言うべきか、賈充の娘であり、晋の皇后であり、その強烈且つ苛烈な性格と生きざまによって場所によってはかなりの知名度が(悪い方向に)ある、賈南風についてお話しましょう。
というのも三国志では殆ど出てこない彼女ですが、その三国志の果てに生まれた晋王朝に(とても悪い意味で)かなりの影響を与えた彼女。賈南風を知っておくと八王の乱や三国志後伝など、色々な内容が理解できるので、良く知らない方はこの機会にぜひ賈南風について覚えておいて下さい。
この記事の目次
皇太子妃となる(ごり押しで)
賈南風の父親は賈充、母親は賈充の後妻であり、郭淮の姪である郭槐の娘です。郭槐にとっては最初の娘ですが、賈充にとっては三女に当たる存在です。
さて既に時代は晋、皇帝・司馬炎は皇太子になる司馬衷に妃を探していました。ここで上がったのが衛カンの娘、彼女は性格が良く賢く色白美人でした。
賈充は娘を薦めますが司馬炎は「賈南風は性格悪いし色黒だし不細工だし頭悪いし子供も少ない家系だから」と、ちょっとお前他人の娘に……という話で一度は断ったのです、が。
郭槐が司馬衷の母親に賄賂を渡したり色々したおかげで周囲が賈南風を皇太子妃として押し切ったのでした。
賢い?内助の功
さて司馬衷、とんでもなく暗愚だったと言われています。という訳でだいぶ前から皇太子は別に、と言われていました。そこで司馬炎、息子を試すべく問題を作って解かせます。
この際に賈南風は問題の回答を作って夫に渡しました、内助の功ですね。
因みに「余りに完璧に作ったら逆に疑われるわね」と、合格ギリギリラインで回答を作ったと言います。
賢いじゃないか、賈南風(そうかな?)
ともあれ司馬炎は「まあこれなら大丈夫か」と皇太子は司馬衷のままとなりましたとさ。
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苛烈な悪妻
こんな風に自分を助けてくれた賢い妻のことを、司馬衷は深く愛して大切に……ということはなく、嫁ぐ前から皇帝の耳に入るほどの賈南風の性格は苛烈、陰湿、嫉妬深く、執念深く……と酷い有様で、司馬衷でさえ彼女を恐れていたと言います。
なお賈南風の悪評は史書にさえ「自ら人を殺しました」とか書かれているほどで、母親である郭槐が嫉妬の勘違いから側室の乳母を殺し、側室の子を間接的に死に追いやったように、賈南風も司馬衷の側室が身ごもった際にお腹の子ごと殺害したとされています。
このため一時は幽閉されるも、他の人物たちの取り成しで事なきを得てしまいました。
因みに賈南風は取り成しされたことを知らなかったので、庇ってくれた人物を逆恨みしたと言います(もうどうしようもない)
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八王の乱
290年、司馬衷即位、賈南風は皇后となりました。翌年に賈南風はクーデターを起こし、前皇后を幽閉して餓死に追い込みます。前皇后は賈南風を皇太子妃にするために手を尽くし、普段から色々と忠告していましたが、それは賈南風にとっては目障りでしかなかったのです。
この際、司馬昭らの弟の司馬亮、前述した衛カイ、一緒にクーデターをやった司馬瑋も殺害、権力を賈一族に集中させました。そして司馬衷の男子で唯一生存していた司馬イツを、母親の郭槐が死の間際に関係改善をするように言ったのにも関わらず廃太子に追い込み、最終的に殺害。
しかし賈南風のやり方は敵ばかり作ることになり、最期は賈南風の姉の子、そして司馬懿の末の子たちが賈南風を打倒するべく兵を挙げ、一族は皆殺し、賈南風も毒酒を飲まされ殺害されて、やっとこの八王の乱は集結しました。
そして同時に、晋王朝もまた終焉へと歩むことになります。
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