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この記事の目次
またまた暗殺計画
255年7月、蜀漢から使者が来ると、孫儀・張怡・林恂は宴席上で孫峻を誅殺しようと企みますが計画が漏れ、孫儀等は自殺しました。この暗殺計画には、孫魯班の妹で孫和派の孫魯育も含まれ、数十人が連座して誅殺されました。どこまでもどこまでも、二宮の変は後を引いていたのです。
求心力の低下を止められない孫峻は、能力の有無に関係なく独裁者がやりがちな方法を選択します。外征により国内の不満を逸らそうと呉版の北伐を画策したのです。ところが、これが孫峻の命取りになりました。
広陵に城を築こうとして失敗
孫峻は広陵に城を築いて、北伐の拠点にしようと考えます。しかし、すでに呉は国力が疲弊し、とても城を造れる状況ではなく、群臣は皆、内心反対でしたが、孫峻を恐れて言い出せませんでした。
唯一、滕胤がこれを諌めますが、孫峻はそれを黙殺して築城を開始、しかし城は完成せず、無駄な土木工事で民衆は飢餓に苦しみ、将兵の心も孫峻から離反します。
北伐準備中に精神疲労で急死
国内の憎悪にさらされても、孫峻は北伐路線を堅持します。五鳳3年(256年)8月マブダチ文欽の勧めで、よせばいいのに文欽、劉纂、呂拠、朱異、唐咨を先鋒に青州・徐州への北伐を画策しました。
孫峻は滕胤と共に石頭まで出張し、遠征軍の為に宴席を設け、従者を100人ほど引き連れて呂拠の本陣に入り視察します。しかし、呂拠が軍を乱れなく統率している姿を見ているうちに孫峻は不安になります。
(こいつ、このチャンスに俺を暗殺しようとするんじゃね?)
恐ろしくなった孫峻は、ちょっと心臓の具合が悪いと称しすぐに引き揚げました。孫峻はまもなく、諸葛恪に殴られる夢を見て、すっかり落ち着かなくなり体調を悪化させ、同年の間に急死します38歳でした。
孫峻年表
219年
孫堅の弟、孫静の曾孫として誕生
239年
孫権の晩年武衛都尉・侍中となる
弓馬の達人で決断力がある性格を孫権に好まれた
250年
孫権が末子孫亮を立てる事に同意
二宮の変の後始末で、孫和・孫覇を
後継者から外して処分した
252年
孫権崩御に際し諸葛恪を孫亮の後見に推す
諸葛恪暗殺を計画した孫弘を
諸葛恪に密告し誅殺する。
253年
諸葛恪を宮廷の宴席で誅殺
合肥新城の攻略に失敗し、
求心力を失った諸葛恪が独裁色を強めると
孫亮を抱き込み宮廷で殺害する
254年
独裁色を強め暗殺計画が続く
反対者を殺害、孫魯班と密通など
孫峻の政治も独裁色を強めて行き
王族による暗殺計画が相次ぐ
255年
求心力が低下しはじめる
同年、2度目の暗殺計画に遭遇するが未遂に終わる。
求心力低下を北伐で補おうとし、
群臣の反対を押し切り広陵に築城しようとし失敗。
民は飢え将兵は離反した。
256年
諸葛恪に殴られる夢を見て急死
再度北伐を計画し、
文欽・劉纂・呂拠・朱異・唐咨を先鋒に
青州・徐州侵攻を画策するが心臓の病を訴え引き揚げる。
・同年:諸葛恪に殴られる夢を見て以来、
精神のバランスを崩し病に臥せ急死。38歳
三国志ライターkawausoの独り言
小心者感がスゴイ孫峻ですが、猜疑心が強いので、暗殺計画を何度立てられても回避できたメリットもあります。董卓のように無駄に気が強いと、敵を小者と侮り、暗殺に倒れるのがテンプレですが、孫峻は小心者ゆえに横死を免れたのです。
ただ、年中暗殺を恐れた結果、心臓に負担がかかり、ついには夢に過去に殺した諸葛恪を見て精神を病み衰弱死していますので、どの道、独裁は短期で終わる運命だったのでしょうね。
参考文献:正史三国志
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