破竹の勢いとは、節があって中々割れない竹も、一度節を割ってしまえば勢い良く最後まで割ることができるように、我が軍の勢いも今はその勢いだ……と例えたことから生まれた言葉です。
その破竹の勢いの期限とも言えるのが、晋の将軍である杜預。彼はその生涯だけでなく、中々面白いエピソードをいくつか持っているので、この機会にご紹介させて頂きましょう。
この記事の目次
不遇の青年時代だった杜預
杜預の祖父は魏の尚書僕射、父は幽州刺史、というように名門の家に生まれた杜預。名家に生まれた杜預もまた家名に恥じない立派な役職に就けられるかと思いきや、
何と彼の父親は(よりにもよって)司馬懿と折り合いが悪く、更には幽閉されて死亡してしまいます。
これによって杜預の人生は詰み状態となるかと思いきや、楽詳によって朝廷に推薦され、更に司馬昭に気に入られたのが杜預の破竹の勢いの始まり。司馬昭の妹を娶り、尚書郎となり、そして祖父の杜畿の爵位も継げるようになりました。既にして30半ばを過ぎた年齢でしたが、杜預の人生の始まりはここからと言っても良いでしょう。
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石鑒との(謎の)軋轢
265年、魏は禅譲によって晋に変わりました。この際に杜預は泰始律令の制定に尽力するなど名門生まれに恥じない頭脳を発揮していましたが、その一方で司隷校尉の石鑒とやたら揉めたことが記録されています。
それは杜預が官吏の昇降についての意見を求められた際に
「毎年その人物を評価して、評価が高ければ優をつけ、低ければ劣をつけ、六年の後にまた評価し、その時に優が多ければ昇進、劣が多ければ左遷させれば良い」
石鑒はこれを大変遺憾であるということ、杜預は免職。
その後、異民族討伐の際にも軋轢は続き、石鑒は杜預に出撃を命じるも杜預は
「敵は血気盛んで今の状態では勝てません。春まで待つべきです」
これにも大変遺憾と石鑒は怒り、杜預は檻車で護送されることとなりました。この際に杜預の妻が司馬昭の妹、司馬炎の叔母ということで官位を捨てることになるも、結果は杜預の見立て通りとなったのです。
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またアンタか
しかしそんな杜預にまた日の目が!
匈奴の反乱対策に度支尚書に任命された杜預、必死に働いて新兵器を開発!常平倉の設置!穀物買取!信玄公もお喜び(まだいない)の塩の定期輸送!税制安定、と戦に経済にと多くの功績を挙げた杜預でしたが、またあやつが現れます。
石鑒登場。
この際に、石鑒が功を自分のものにしようとしたとして杜預は糾弾、激しい口喧嘩をしたことで今度は二人とも免職処分となりました。ここで遂に終わりかと思いきや、杜預の元に日は何度でも上ります。
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お待ちかねの呉討伐
皇帝・司馬炎は呉を討伐したくてたまりませんでした。とは言え賈充らはそれには納得してくれず、賛同してくれた羊コは278年に死去。この際に後任として任命されたのが杜預です。
杜預は呉の名将・張政を破り、離間策で張政を失脚させ、未だ朝廷内で呉討伐反対を受ける司馬炎に上奏文を送り、司馬炎も決意。呉討伐に乗り出した杜預は正に「破竹の勢い」で軍を進めていきます。
それでも尚、「上手く行き過ぎる」として朝廷では慎重論が出るもこれに返したのが「今の自分たちは、竹に刃を入れて割るみたいな勢いです。だから建業までいきます(超訳)」そして本当に建業までたどり着き、呉を滅亡させました。
羊コ亡き後一年後に討伐開始、滅亡させたのは更に一年後。杜預は見事に羊コに任された仕事をやり遂げたのです。
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