関羽と言えば劉備の忠実な配下で、武勇に優れ、義理堅いイメージのある武将です。
しかし、劉備の関羽に対する扱いや関羽の行動から考えると、実は配下ではなく独立した群雄の一人だったという独立説も浮上してきます。そこで今回は関羽が独立していた根拠を列挙しつつ、その人物像から新たな説を考えてみました。
この記事の目次
根拠1:関羽は独断で襄陽を攻めた
219年、劉備が漢中王になると関羽は前将軍へ昇格し、軍事における独断行動権を得ます。
ほどなくして関羽は襄陽へと侵攻しますが、漢中を攻めていた劉備とは動きが噛み合っておらず、漢中から引き上げた曹操軍が荊州へと押し寄せてしまいました。
また、襄陽を攻めるにあたり関羽は曹操領内で印綬や称号をばら撒いて反乱を誘発しているのですが、これは君主レベルの権限がなければできません。こうした連携のなさや普通に越権行為をしていることを踏まえると劉備の配下ではなかったという見方ができます。
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独立の根拠2:関羽の逃走ルート
襄陽を包囲していた関羽でしたが、援軍としてやってきた徐晃に包囲を突破され敗走します。
呂蒙の策略によって江陵も失っていたので帰る場所はないのですが、関羽は一度南下して当陽へと進み、そこから西へ転身して麦城に入りました。
生き残ることを考えるのであれば退路は益州のみ。襄陽の西に広がる山岳地帯へ入れば最短で益州へ向かえたと思うのですが、劉備の配下ではなかったために益州には逃げられなかった可能性があります。
独立の根拠3:孫家との縁談を勝手に拒否
関羽は孫権から縁談を持ちかけられたことがありますが、これを拒否して孫権を怒らせています。劉備の配下であれば同盟相手との立場を考えて穏便に事を進めたはず。
少し飛躍した発想をすると、孫権は関羽を独立勢力とみなしていて、劉備から関羽(荊州)を切り離すための離間の計として縁談を提案したのかもしれません。
関羽は後ろ盾である劉備の信頼を失いたくないために、少し大げさな断り方をしてみせた(それも織り込み済みだった孫権は怒りを露わにして南郡侵攻への大義名分を得た)とも考えられます。
独立の根拠4:関羽は別行動が多い
関羽は張飛に比べると極端に別行動が多いです。
- 196年、劉備は呂布に下邳を奪われる。和睦後に劉備は小沛に戻るが、関羽は下邳へ派遣される
- 199年、劉備が徐州刺史の車冑を殺害して徐州を奪った際も劉備は小沛へ留まり、関羽は下?で太守の仕事を任されている
- 208年、長坂の戦いにおいて関羽は別働隊を率い、水路で移動している
- 209年、劉備が周瑜と共に江陵を攻めている中、関羽は北道を封鎖している
- 南郡平定後、劉備は公安に駐留し、張飛は宜都太守(いずれも長江の南側)となったのに対し、関羽は襄陽太守を任じられ遠く離れた長江の北側を守っている
- 劉備が益州を攻めた際に荊州の留守番を任される
関羽と張飛は劉備が平原の相になった際に別部司馬(独立友軍のようなもの)になっていますが、張飛に比べると劉備と一緒に過ごした時間は短いのではないでしょうか。これは関羽が劉備に仕えながらも半分独立した特殊な立ち位置にいたことが理由とも考えられます。
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