呂蒙は呉の名将で、関羽を討ったことで有名ですね。そんな呂蒙は219年に42歳の若さで亡くなっています。
その死亡原因なのですが、史実である「三国志」と小説「三国志演義」では全然違うのです。どうしてそのようになってしまったのでしょうか?
呂蒙の人生と功績から探ってみたいと思います。
この記事の目次
貧乏から身を起こす呂蒙
呂蒙は貧しい家に生まれました。あるとき、義理の兄が孫権軍に武将として従軍していました。当時15歳の呂蒙はその軍に勝手についていき、母親にしかられることになります。
しかし呂蒙は
「貧しさから抜け出すには危険を冒すしかない」と語り、母親を納得させています。
のちに呂蒙は自分を馬鹿にした人物を斬り殺してしまいます。
それで当時の呉の孫策の前に引っ立てられていったのですが、そこで孫策に才能が認められ、呉軍に武将として仕えることになるのです。
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数々の戦いに従軍する呂蒙
そして呉軍の武将として数々の功績をあげ、有名な「赤壁の戦い」でも曹操を破っています。曹操の武将曹仁との戦いでは罠を用いて彼を破ることに成功しています。
呂蒙は策略がとても得意な人物だったようです。その後は病死した呉の武将周瑜に変わり、呉で重きをなしていくことになるのです。
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呉下の阿蒙に非ず
呂蒙はその生まれから、正式な学問を受けたことが無く、文字もかけないほどでした。
ある日主君の孫権から「職務を遂行するためには学問も身に着けたほうが良いぞ」と注意されてしまいます。
そこで呂蒙は一念発起し、必死に学問にはげみます。やがて呂蒙は学者も驚くほどの学識を身に着けることになるのです。
そんな時、同僚の魯粛が呂蒙を訪ねてくることがありました。正直、魯粛は呂蒙の学について疑問を持っていたのですが、実際に話し合ってみてその豊かな学識に驚いたといいます。
そして「もう君の事を呉の町(呉下)にいたときのように気軽に蒙ちゃん(阿蒙、“阿”は“-ちゃん”という意)と呼べないな!」と驚いたそうです。
呂蒙はそれに対して「いつも努力しているものは3日も会わないとすっかり変わっているものだよ」(士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし)と答えたそうです。
これが有名な「呉下の阿蒙に非ず」というエピソードです。ちなみにそこで二人が話し合った内容は領土が隣接する関羽対策についてでした。
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