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この記事の目次
陸遜、陸家の長となる
陸遜たちが避難したのはもともと陸家の本拠である呉県でした。陸康亡きあと、陸家の家長は陸康の子、陸積でしたが、まだ幼かったため年長であった陸遜が陸家を取り仕切ることになります。
のちに孫策は袁術の元から独立し、呉県もその傘下に入りました。しかし、その因縁からか、陸遜は孫策に仕えたことは無かったようです。一方陸家の長である陸積は孫策に仕えました。まだ年若だったため、孫策の家臣団の中では末席でしたが、孫策にも堂々と意見するなど豪胆な人物だったようです。
これには同じ「呉の四姓」の「張家」の一族である張昭も感心したそうです。この時点でどうやら陸家と孫策の因縁も解消されたようです。
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孫策、非業の死を遂げる
陸家の本拠呉県を含む江東地方を席巻していた孫策でしたが、その一方で多くの勢力の恨みを買う事になります。孫策はある日単騎で外出した際に滅ぼした勢力の刺客によって殺されてしまったのです。
曹操の参謀の郭嘉は孫策について「有能だが多くの仇を持ち無警戒」と評したことが現実となってしまいました。
孫策は弟の孫権に跡をたくし、亡くなりました。
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陸遜、孫権に仕える
孫策には士官しなかった陸遜でしたが、地方では名声を高めていました。そして21歳のとき、孫策の弟の孫権が孫家当主となった際に仕えることになりました。
孫権は陸遜の事を高く評価し、孫策の娘を陸遜に嫁がせるなど関係を深めていくことになります。陸家は孫策と対立する関係でしたが、ついに親戚同士になったのです。
後に陸遜は関羽との戦いや、夷陵の戦いなど呉軍の中枢で働いていくことになります。
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その後の陸家と孫家
その後も陸家と孫家はつながりを深めていくことになります。陸遜は晩年、孫権の後継者争いに巻き込まれ、憤死することになりましたが、一族は大いに繁栄しました。陸家からは多くの将軍や丞相を輩出し、「呉の四姓」の中ではもっとも呉の中で力を持ちました。
しかし、孫家も陸家も中国を統一した「晋」の争いに巻き込まれ、のちに衰亡していくことになってしまうのです。
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三国志ライターみうらの独り言
孫策と陸家はかなり深い因縁がありました。しかし、のちに親戚になるぐらいに親密になったことを考えると、因縁以上にお互いに能力的に魅力を感じる事があったのかもしれませんね。対立しても相手の事を知ることが大事だと思わせる関係性ですね。
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