馬超と関羽と言えば思い浮かぶのは関羽が諸葛亮に送った手紙でしょう。
「孔明どの、時に馬超とやらの実力はどれほどなのかな?」
「馬超はまさに当代の豪傑でしょう。その力は張飛に勝るとも劣りません。ただ、惜しいかな髭どのの実力には及びません。」
この手紙を受け取った関羽は大いに喜び自慢して回ったと言います。
このエピソードは関羽のプライドの高さを示すものとして捉えられがちです。しかし、少し違う見方をするとこの手紙には関羽の荊州統治、そして北伐の足がかりを作るための戦略が隠れていたのではとも思えてきます。
今回は関羽のプライドの高さを忘れて馬超に対抗意識を燃やしたエピソードの裏側を推察していきましょう。
標的が馬超である理由
諸葛亮との手紙のやり取りがいつ頃の話なのかはわかりませんが、少なくとも馬超が劉備の配下となってからそれほど時間が経っていない頃のことでしょう。
その頃の関羽は荊州で曹操軍と戦って敗走するなど安定した統治ができていたとは言い難い状態です。また、関羽は取り立てて大きな戦功を上げていないので、配下の将兵や荊州の領民たちを安心させるには関羽の凄さを知らしめる必要がありました。
それにはやはり益州で活躍している人物との比較が効果的。その際に比較対象として白羽の矢が立ったのが馬超。理由は羌族などの異民族からの支持が厚いこと、そして馬超が劉備に下ると劉璋も降伏を決意したように影響力が高かったためです。
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諸葛亮のお墨付きを得る
劉備に降伏する前の馬超は曹操軍に何度も破れていますが、潼関の戦いでは曹操を追い詰めたばかりか曹操軍に万単位の損害を出させた実績があります。
関羽は自身がそんな馬超よりも上であることを第三者に認めさせることで、荊州の曹操軍を畏怖させ、自領内の民衆を安心させようと考えました。
あとは誰に評価をしてもらうかということになるわけですが、荊州においてその人ありと言われた諸葛亮であれば荊州の民も納得しますし、劉備軍の将兵も認めざるを得ません。
また、関羽としては諸葛亮なら自分のことを悪く言わないだろうという計算もあったでしょう。しかして諸葛亮の返答は、関羽の予想の斜め上をいく賛辞。
もちろん諸葛亮が意図を汲みとった可能性もありますが、関羽は計画がうまくいったことに喜び、手紙を周囲に見せびらかせることで多くの人に自身があの諸葛亮から馬超を超えるという評価を得ていることを触れ回りました。
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馬超の異民族に対する名声
関羽が馬超を比較対象としたのにはもう一つの理由があります。それは異民族に畏れられる馬超よりも格上の自分が軍を起こすことで、曹操領内の諸県を扇動し反乱を起こさせるためです。
これは特に異民族に効果があったと考えられます。なぜなら、馬超は羌族から慕われていただけでなく、匈奴にもその名が広まっていたから。
というのも、かつて馬超とホウ徳は曹操配下の鍾ヨウに従って郭援、匈奴の反乱の鎮圧へ赴いたことがありますが、そこで獅子奮迅の働きをし、最終的に単于の呼廚泉が降伏しているためです。
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樊城の戦いで関羽に組みした陸渾
実際、関羽が荊州北部を攻めた際には曹操領内で反乱が多発。その中には陸渾という異民族がいました。
陸渾は後漢書の西羌伝に記載があることから羌族の一氏族とも考えられていますし、一説にはケン允という異民族から発生し、後に匈奴となったとも言われています。
春秋時代に涼州方面から東進してきた陸渾は晋や楚に攻撃されて滅び、その後も晋や楚の領内に分散していきました。後漢時代には漢民族化して長かったと考えられますが、陸渾と呼ばれている時点で漢民族とは別と考えられていたことは間違いありません。
反乱を起こした理由は益州に労役で駆り出されることに反発したためですが、民衆を率いた孫狼はそのまま関羽に帰順するといった動きを見せています。これは馬超の名声をうまく利用し、自身の評価を高めたことによる関羽の策略の賜物だったのではないでしょうか。
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