「三国志」での代表的「暴君」(人民をしいたげる乱暴で無道な君主)は「董卓」でしょうか。彼は「後漢」を実質的に壊滅させ、後の「三国時代」への道を開きました。
暴君董卓を打倒するために、後の三国志で活躍する英雄たちが戦う事になるのです。今回の記事ではそんな董卓の暴君ぶりと、他の三国志に登場する暴君たちも紹介します。
董卓、都に乗り込む
董卓は元々は地方で異民族反乱の鎮圧で名を上げた人物でした。やがてその勇名を知った大将軍「何進」に都に呼び寄せられるのですが、その時に後漢の亡くなった先帝「霊帝」の二人の息子らを確保することに成功します。
董卓はそれを機会にたちまち都を制圧してしまいます。
董卓の暴君ぶり
都で権力を握った董卓は皇帝の「少帝」を殺し、「献帝」を擁立します。そして自らの一族を赤ん坊に至るまでことごとく要職につけ、朝廷を思うが儘に操ることに成功します。
董卓の軍団はならず者揃いで、都で強盗、略奪、強姦など思いつく限りの悪行で都を恐怖に陥れました。
それに反発した者たちが「反董卓連合」を結成すると、董卓は遷都を強行、その際に洛陽の金持ちに罪をかぶせ、財産を奪い取ります。また、先帝の墓を暴き、財宝を略奪もしています。
関連記事:【衝撃】反董卓連合軍が壊滅したのは内輪もめが原因ではない
関連記事:よく考えてみると劉備は反董卓連合に参加していないのでは!?
関連記事:みんな演義に騙された?董卓の長安遷都と洛陽炎上には嘘がある!
暴君の哀れな最期
数々の悪行を行い、暴君にふさわしい行いをした董卓でしたが、密かに暗殺計画が練られていました。
その中心人物「王允」は董卓の側近「呂布」を裏切らせることに成功し、彼に董卓を殺させます。
董卓の一族は皆殺しにされ、董卓の死体は市場にさらされていたそうです。肥満した董卓の死体には蝋燭が立てられ、それは何日間も火が消えなかったらしいです。
関連記事:太原王氏にはどんな人がいるの?暴君董卓を討った王允の一族
関連記事:呂布の出身地は五原郡!呂布と同郷出身である王允とは何者?
関連記事:何で賈詡は董卓残党を奮起させて王允の政府を破壊したの?
派手好き袁術
次の暴君は「袁術」です。「袁術」は「袁紹」の従弟とも兄弟とも言われています。彼は中央の役職を歴任していましたが、董卓が都を制圧すると彼の陣営で将軍職に任命されています。
しかし、後に董卓の下を離れ、太守が孫堅に殺されていた「南陽郡」を根拠にすることに成功し、孫堅も支配下に置きます。袁術は贅沢を追求し、支配下の南陽郡では重税で庶民は苦しんだといいます。
関連記事:【意外な事実】袁術は本当に伝国の玉璽を持っていた!
関連記事:【if三国志】もしも、袁紹と袁術がラブラブだったら?
勝手に皇帝を名乗る
当時後漢の皇帝の「献帝」は都を脱出し、各地を転々としていました。これを知った袁術は「帝室はもうだめだ。我が家は名門で、人民の支持もある。天命に答え、人民の期待に応えるのだ。」と帝位への野心をむき出しにしました。
その時は側近に止められましたが、「天命が袁術どのにくだる瑞兆が見られます!」と言上するものがいて、袁術はついに念願の帝位に勝手に即位しました。国号は「仲」でした。
しかし、袁術は相変わらず贅沢を追求し、淫乱と派手な生活が更に加速、数百人の後宮の女たちは常に薄着で、米や肉を食べずに捨てるほどでした。一方で人民は飢え、袁術の支配地は人が人を食う惨状でした。
袁術は支持を失い、家臣にも裏切られ、戦いにも敗れ、逃亡先で食べ物も尽き、「蜂蜜が食べたい」と言い残し、亡くなりました。
関連記事:袁術さんはどうして皇帝を名乗ったの?
関連記事:孫策が袁術のもとから離れたのは本当に皇帝になったのが原因なの?
関連記事:袁紹と袁術が親戚同士ならどうして共闘して天下を狙わなかったの?
【次のページに続きます】