今回は八王の乱で荒れに荒れた晋王朝の中で見事独立建国を果たした劉淵のお話です。
前時代から問題になっていた異民族の問題、そこでやらかした司馬穎。
しかし司馬穎がただ失態しただけではなく、「漢の建国」を果たした劉淵の凄さ、強かさについてお話したいと思います。
南匈奴の王子・劉淵
劉淵は左賢王・劉豹の息子です。この父親の時代から劉姓を名乗るようになりましたが、この事が彼の人生に大きく関わってきます。しかし幼い頃の劉淵は人質となって洛陽で過ごしていました。
このため司馬炎らと面会した記録もあり、その才覚の凄さから後の脅威となるとも言われてきました。それでも異民族ということもあり、高い地位に付けられることはなく、雌伏の時を過ごします。
関連記事:司馬炎はなぜ呉を滅ぼすのに15年かかった?中華統一はどうでもいいの?
関連記事:司馬炎の政治力が三国時代を終わらせた!晋の創始者の政治から学ぶ「妙」
八王の乱で独立
そんな劉淵が晋王朝から独立の機会を得たのが何を隠そう八王の乱です。ここで八王の乱のメンバーの一人、
司馬穎が司馬越たちと対抗するために劉淵に五部に分割されていた匈奴の兵力を結集して戦いに協力しろ、と命令を出しました。
これで劉淵は散らばっていた異民族を集結させ、武装させる良い理由ができたのです。こうして劉淵は見事晋から独立、漢の建国を果たしました。
関連記事:司馬越とはどんな人?八王の乱の一人で全ての終焉となった漢
劉淵の賢い所
さてただ力を手に入れたことをチャンスに建国した、だけでないのが劉淵の凄い所。
まず建国した国、これは「漢」です。漢と言えば皆さんご存知、高祖劉邦が建国した国であり、劉備もこの末裔として漢を建国しました。そして劉淵もまた、劉邦の義兄弟の末裔として漢の建国を行ったのです。
関連記事:劉邦から劉備に続く『漢』という時代の影響を考察してみる
関連記事:劉邦はなぜ大粛清を行ったのか?劉邦の粛清を少し考えてみる
冒頓単于
ちょっとこの辺はややこしいので解説しておきましょう。かの劉邦の時代、項羽を打ち破り敵なしかと思われた劉邦に敗北の苦みを再び味わわせたのが、匈奴の冒頓単于でした。
ぼっこぼこにやられた劉邦は匈奴と講和を結び、その際に公主を奥さんとして差し出す、毎年貢物を贈る、漢と匈奴で兄弟の盟約を結ぶという講和条件を出しています。劉淵はこれを利用して、漢王朝復興という良い理由を付けて独立したのです。
関連記事:【匈奴にも名言は存在していた】冒頓単于の名言「地は国の本なり」
関連記事:冒頓単于(ぼくとつぜんう)とはどんな人?漢帝国の宿敵で匈奴の名君Part.1
名目は念入りに
また劉淵は劉禅に「孝懐皇帝」と諡号、曹氏、司馬氏は帝位の簒奪者とすることで、皇帝に反逆するものではなく、あくまで漢王室に対しての簒奪者たちへの誅殺という題目を掲げました。
これらもとても念入りな行動ですね。一歩間違えればただ弱った国に好機と反逆の狼煙を挙げただけの人物になりそうな所を、漢王朝という人々の記憶に強く残っていた王朝を利用し、建国したのです。この辺りはある種、劉備にも通じる所がありますが、もう一つこの劉淵の行動で思い起こされる人物がいないでしょうか。
【次のページに続きます】