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蜀漢滅亡時の兵力は何人?蜀漢政権樹立前から滅亡までの兵力を考察

2022年4月10日


 

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逃亡する兵士 三国志ver

 

三国の中で最も兵力が少なかった蜀漢ですが、魏によって滅ぼされた際の記録によれば、兵士の数は10万2千人だったとされています。しかし、実際に姜維(きょうい)が率いていた数や、地方に配置されていた兵力を考えても、本当に10万もの兵がいたのか疑問が残ります。

 

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

そこで、今回は劉備(りゅうび)が入蜀する前後から蜀漢滅亡までの兵力の推移について考察してみたいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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赤壁以前の劉備勢力の兵力

赤壁の戦い

 

劉備が赤壁(せきへき)の戦いで率いていた兵力は2千ほどです。これが劉備勢力の総数だったのか、周瑜(しゅうゆ)に勝ち目がないと踏んだ劉備が少なめに派兵したのかは定かではありません。なので、赤壁の戦い以前の劉備の兵力は2千以上だったという結論です。

 

曹操から逃げ回る劉備

 

また、長坂(ちょうはん)の戦いで敗走した劉備は、江陵への道中で劉琦(りゅうき)が率いていた軍勢1万ほどと遭遇しています。この軍が劉備軍に組み込まれたかは不明ですが、劉備に協力していたとすれば、最低でも1万2千人は兵がいたと言えます。

 

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赤壁の戦い

 

 

 

荊州南郡領有から入蜀まで

劉備に仕える張裔

 

赤壁の戦いの後に孫権(そんけん)から荊州(けいしゅう)南郡を借りた劉備は、そこで兵力を増やして入蜀を果たします。その後は劉璋(りゅうしょう)の兵も合わせて3万ほどになりました。では、劉備は自軍の兵をどの程度率いていたかですが、恐らくは半数の1万5千ほどでしょう。

 

二刀流の劉備

 

法正伝には鄭度(ていど)という人物が劉璋に対して、兵糧攻めを進言する記述があります。その中で「劉備の率いる兵は万に満たず」と言っていますが、これは劉璋を焚きつけるために、あえて劉備軍の数を少なく言ったと考えられます。

 

 

劉璋の立場で考えれば、1万以下の兵士しか連れてこなかった劉備に、その倍以上の兵力を与えたりしません。劉備は1万5千、多くとも2万程度を率いて入蜀し、劉璋はそれと同程度の兵を増員したと考える方が自然です。

 

張飛の虎髭

 

では、荊州にはどのくらいの兵が残っていたのでしょうか。後の益州(えきしゅう)攻略戦では、諸葛亮(しょうかつりょう)張飛(ちょうひ)が荊州から援軍として出陣します。その兵力と荊州の守備軍の数を考えると、劉備が率いた分と合わせて、5万から6万ほどの兵力はあったと言えます。

 

青龍偃月刀を持つ関羽

 

恐らく、劉備が1万5千ほどを率い、諸葛亮らが2万程度で援軍に向かい、関羽(かんう)が2万で荊州を守備といった内訳です。

 

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関羽

 

 

益州平定後の兵力

三国時代の弓兵(兵士)

 

益州を得た劉備は一気に軍の規模が大きくなり、10万を超える兵を有していたようです。その一部は荊州の兵力ですが、およそ4万程度は荊州に駐屯していたと考えられます。

策略が得意な呂蒙

 

なぜなら、劉備が益州を得ても南郡を返還しなかったので、呂蒙(りょもう)が兵を率いて桂陽(けいよう)長沙(ちょうさ)零陵(れいりょう)の3郡を襲撃します。この迎撃のために関羽は3万を率いて益陽(えきよう)に駐屯しているからです。

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

益陽は長沙郡にあった県で、洞庭湖(どうていこ)の南にあります。曹操(そうそう)軍への備えも必要と考えると、1万程度は残していたはずです。次に益州ですが、上記の争いが起きた際に劉備も自ら5万の兵を率いて、益陽の北西にある公安に駐屯しました。益州は曹操軍の来襲に備えて3万、4万程度は残しているはずなので、荊州が4万、益州が9万ほどと考えると全体で12、3万程度の兵力をしていたことになります。

 

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呂蒙

 

 

夷陵の戦い前後

父・関羽とともに亡くなる関平

 

関羽が孫権によって討たれ荊州を失った劉備ですが、この時の益州単体の兵力はどれほどだったのでしょうか。劉備は夷陵(いりょう)の戦いに際して数万という規模の兵を動員しています。

 

劉備とともに呉を攻めまくる馮習

 

資治通鑑(しじつがん)」によると先鋒隊である呉班(ごはん)張南(ちょうなん)馮習(ふうしゅう)が率いていた兵は4万で、これに武陵蛮(ぶりょうばん)の兵も加わったそうなので、5万ほどの兵力は有していたでしょう。

 

陸遜

 

対する孫権軍も同じように5万で対抗しています。ただ、劉曄(りゅうよう)伝に引く「傅子(ふし)」の注釈によると、陸遜(りくそん)が劉備を破った際に兵8万余りを殺したという記載があるので、劉備は10万近い兵を率いていたのかもしれません。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

その場合、漢中などの前線に3万程度、巴東(はとう)へ1万程度の守備兵を配置したとしても14、5万程度の兵力があったことになります。益州単体でなぜここまで急激に兵力が増加したのかについては、漢中争奪戦が大きな要因と言えるでしょう。

 

蜀志(蜀書)_書類

 

楊洪伝(ようこうでん)には、劉備が漢中争奪戦で徴兵を促す指示を諸葛亮に出し、その件を楊洪に相談しています。それに対して楊洪は、「危急存亡の時なので、男子は戦い、女子は糧食を運ぶ必要がある。何を迷われるのか」と答えています。

 

呉志(呉書)_書類

 

このことから、漢中争奪戦に際して大規模な徴兵が行われた可能性があり、それが夷陵の戦いにも動員されたのではないでしょうか。ただ、陸遜伝や呉主伝の劉備軍の損失は数万となっているので、夷陵の戦いに動員した兵は7万程度で、益州の兵力も10万ほどだった可能性もあります。

 

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夷陵の戦い

 

 

諸葛亮政権時代

北伐する孔明

 

諸葛亮は夷陵での敗戦から3年で南中征伐を行い、その2年後に北伐を開始しています。この時の蜀漢軍の兵力はどうだったのでしょうか。ここは明確な記載がないのでほぼ推測です。

 

孔明君のジャングル探検

 

まず南征に際してはそれほど大きな兵力が動員されなかったと考えられます。理由は地方の太守が起こした反乱の鎮圧が発端だからです。実際、反乱の首謀者である雍闓(ようがい)は、同じく反乱を起こした高定(こうてい)の部下に殺されています。

 

孔明君のジャングル探検

 

反乱軍がまとまりにかけていることや、夷陵の敗戦から3年足らずでは兵力も回復しきらないであろうことから、動かせたのは2、3万程度でしょう。ただ、南征の成果として青羌という異民族を数万人帰属させることに成功しているので、リターンは得られたと言えます。

 

孔明インタビュー

 

続く諸葛亮の北伐時期ですが、少ない場合は1万に満たない数で遠征を行ったこともあります。最大でどれくらいの兵が動かせたかですが、おそらく北伐初期で6万から8万程度。第五次付近では10万近くまで動員できるくらいには国力が回復していたものと思われます。

 

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南蛮征伐特集

 

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TK

TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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