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馬超の従弟「ここにいるぞ!」の馬岱
一方で、馬超が家の祭祀を託した馬岱。馬超の従弟で、三国志演義では割と活躍している存在ですが、正史では実は良く分からない存在です。というのも、正史では馬超の臨終の際にやっとその存在が語られるのです。
補足しますが三国志演義の「ここにいるぞ!」の一件の元はあり、魏延が楊儀に敗北して逃走した際に馬岱がこれを追いかけて斬った、という話は魏延伝に乗せられています。
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西暦235年以後、消息不明な馬岱
この馬岱が魏延を斬ったというのが234年のこと。ここから馬岱の方もどうなったのかは不明になりますが、晋書に記録が残されています。
これによると235年に馬岱が魏に兵を引いて攻めてきたが、牛金がこれを破った、となっているのです。ですがそれ以降は分からず、253年に姜維が軍権を握って北伐を開始するも、ここに馬岱の名はありません。もちろん馬承の名もないので、最期まで馬家は謎のままです。
馬超は羌族に心服されていた、と言われているので、生きていたならそういう血筋を利用されたと思うので、個人的には断絶したのではないかと思いますが……本当に謎ですね。
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三国志ライター センのひとりごと
今回は馬超以降の馬家の謎について考えてみました。順当に言うと、たぶんもう亡くなっていたのでは、と考えられますが……蜀も蜀で安定していた、とは言い難いので、邪推すると色々な件に巻き込まれた可能性もありますね。
亡くなったのか、巻き込まれたのか、それとも……考えは尽きませんが、今回はここで終わりとしましょう。
どぼん。
参考文献:蜀書馬超伝 典略 魏延伝 晋書宣帝紀
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