曹操と袁紹はかつて旧友同士であり、群雄として領地を持つようになった後も危機に陥った時はお互いに協力をしてきました。
しかし、曹操が献帝を擁立すると二人の関係は急速に悪化し、最終的に官渡で戦うことになるのです。
今回は三国志、後漢書、資治通鑑の記載から官渡の戦いの開戦前にどのようなやりとりがあったのかを見ていきます。
献帝を拒む袁紹
195年に献帝は長安を脱して東へと遷都を試みます。しかし、献帝は弘農にある曹陽亭で敗れ河東郡の安邑という場所へ逃げました。
この年の冬12月に袁紹配下の沮授は、献帝を迎えて鄴を都とすべきであると進言しますが、幕僚の郭図と淳于瓊が反対したために袁紹はこれを却下しています。
ですが、献帝が前述した河東郡に入ると、袁紹は配下の郭図を派遣して献帝の様子を探らせます。戻った郭図は沮授と同じように献帝を鄴で迎えるべきと進言しますが、ここでも袁紹は取り入れることができませんでした。
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曹操の献帝擁立
その後、献帝は廃墟となった洛陽へ戻ります。そこから曹操に迎えられるのですが、ここの記載は後漢書と三国志で相違があります。
後漢書の董卓列伝によれば献帝を補佐していた董承が曹操を招いたとありますが、三国志の武帝紀では董承は曹操が派遣した曹洪の部隊を袁術軍の萇奴とともに防いでいるのです。
その後、曹操は自ら洛陽に赴き献帝を守りますが、洛陽が廃墟であるために董昭の言葉に従って許県へ遷都しました。ここから献帝は曹操の傀儡として操られていきます。
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袁紹の後悔
曹操が献帝を迎えると袁紹は自らの選択を悔いました。詔書が届くたびに自分に都合の悪い内容なのではないかと憂えることになったのです。そこで、袁紹は献帝をけい城に迎えて都にしてはどうかと曹操に持ちかけます。けい城は許県よりも北東にあり、袁紹の領土とも近い場所です。
袁紹はなんとか献帝を自分のそばにおき、いずれは武力で奪うことを考えたのでしょう。当然ながら、曹操はこの申し出を拒否します。袁紹配下の田豊は曹操が応じない場合は、許県を急襲して献帝を保護すべきとしていますが、袁紹は従いませんでした。
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曹操が袁紹を責める
献帝が許県に移ると、曹操は献帝の名を借りて袁紹に以下のような内容の詔書を送ります。
「君(袁紹)は領土も広く兵も多く持っていて、なおかつ独立した勢力の様相を呈しているにも関わらず私(献帝)が危機にさらされている時に助けに来ず、あまつさえ周囲(公孫瓚)と争っている。これはどういうことか?」
袁紹はこれに対してかなり長文な返信をして弁明をしています。かいつまむと、袁紹のこれまでの行動は全て献帝のためであるという内容です。
例えば、かつては朝廷を乱した張譲ら宦官を一掃し、叔父の袁隗が董卓のもとにいるにも関わらず董卓討伐に名乗りを挙げている(結果、袁隗は殺されている)。
青州と兗州は黄巾賊や黒山賊が暴れていたので、それらを討伐して曹操を兗州牧にし秩序の回復を図った。
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袁紹の反撃
次に曹操は献帝を利用して袁紹を太尉とし、鄴公に封じようとしますが、袁紹は曹操が大将軍であったためにこれを拒みます。袁紹は曹操の下に就くことを恥と考えていましたし、かつて曹操が窮地に陥った際に何度も助けてやった恩を仇で返したと激怒。
恐れた曹操は穏便に済ませるために大将軍の地位を辞して袁紹に譲りました。
献帝を擁立した曹操でしたが、呂布の対処に困り、さらに降伏した張繡が反乱を起こし宛城で曹操軍を破っていました。そんな中、袁紹は曹操に礼節を欠いた手紙を送りつけます。
曹操は怒り、荀彧と郭嘉に袁紹を討ちたいが力では敵わないので、どうすればいいかと訪ねます。二人は目下の袁紹の狙いは公孫瓚なので、相手が遠征をしている間にこちらは呂布を片付けることを提案。特に郭嘉は曹操と袁紹を比較し、曹操が勝っている点を10つ述べ、曹操を安心させています。
それから曹操は呂布を滅ぼし、袁術も病死。張繍も再度降伏させていますが、劉備が徐州で反乱を起こします。
当時、袁紹はすでに河北を平定していて、劉備からも救援要請を受けていました。田豊は曹操が徐州に向かい、空になった許都の急襲作戦を進言しますが、結局採用されることはありませんでした。
劉備は敗走し、袁紹は青洲刺史の袁譚に劉備を受け入れるよう指示。これを皮切りに袁紹と曹操は白馬、延津での前哨戦を経て官渡でぶつかるのです。
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三国志ライターTKのひとりごと
袁紹は再三もともと沮授の献策に従い、河北を平定して献帝を迎えることを目標としてきました。しかし、最後には献帝を受け入れることができませんでした。
袁紹はもともと少帝派で、董卓が勝手に即位させた献帝をよく思っていなかったようです。
董卓が少帝を殺したあとに、劉虞を皇帝として即位させようとしていることからも分かります。そう考えると、袁紹と曹操が対決することは随分前から決まっていたことなのかもしれません。
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