何だか今回はミステリーの一説のようなタイトルとなってしまいましたが、今回は何晏について少しお話をしたいと思います。
何晏という人物は色々とインパクトがあるエピソードが多く、ちょっと調べてみると面白い人ですが、その最期はいかなるものだったのか。
最期に付いては処刑でありますが、タイトル通り「誰が何晏を殺したか」。それに付いてここでは色々と考えてみたいと思うのです。
この記事の目次
何晏、実は有名なあの人のお孫さん!
さて何晏、字は平叔。彼は父親は違いますが、曹操の養子となって養育されました。母親である尹氏が曹操の妾となったのが養子になった理由なのですが、実父は不明です。しかしその祖父は皆さんも良くご存知のあの方、後漢末期の大将軍、何進なのです。
才気に溢れた何晏を曹操に可愛がり、娘である金郷公主を娶らせたほど。ただ曹丕からは嫌われ、その子の曹叡にも疎まれていたようです。
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もしかしてナルシストのテンプレートイメージは何晏!?
そんな家臣ですが、ナルシストであったとされています。良く漫画などでナルシストキャラクターが鏡に映る自分を見て「美しい……」なんてやっているのを見ますが、実は何晏もこの気がありました。
何晏は手鏡を常に持ち歩いてはそれを覗いて、自分の顔にうっとりしていたのだと……殆どテンプレート!因みに何進将軍はイメージでは大柄で愚鈍っぽい人物ですが、妹が何皇后であることを考えると、顔立ちの良い一族の可能性もありますね。
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曹操「私が育てました」 優秀さは間違いない何晏
才気煥発で曹操に可愛がられた何晏ですが、その才覚は間違いのないものでもありました。何晏は「論語集解」や「老子道徳論」を編纂した人物でもあるのです。清談時代の先駆けをひらいたとも言われる何晏は、玄学の創始者ともされています。
優秀さは間違いない一方で、自分の才覚にも自信があったのか、夏侯玄や司馬師と親しくしてその才能を評価しつつも、自分は神!とも準えていたとか……。さあそんな彼は、曹真の息子でもある曹爽と親しかったようで(あっ)
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曹爽の大出世とわんわん何晏
曹叡の死後、まだ若い皇帝の司馬懿と曹爽が後見人を任されました。曹爽は司馬懿に対して最初は父親の如く接し、敬意を持っていたそうですが……段々と、曹爽は権力者としてその地位を欲しい儘にしていきます。
その背後には「何晏が唆した」とも言われており、そもそもずっと冷遇されていた何晏は曹爽と親しかったために侍中尚書にまで取り立てられたと言います。
何晏、そして丁謐、鄧ヨウら曹爽の取り巻きは自分たちの良いように政権を動かしたため「尚書省には三匹の犬あり、二匹は人に噛みつき傍にも寄れず、一匹は黙に取りつく腫物となっている」この嚙みつく犬が何晏ということですね。因みに腫物が丁謐で、司馬懿を名誉職に押し込んで実権は取り上げた人物とされています。
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高平陵の変、勃発(そしていつか取った杵柄)
司馬懿も司馬懿でこのままでは我が身が危険と高齢を理由に、仮病で引きこもりました。曹爽一派も司馬懿には警戒を解かず、247年、引きこもっていた司馬懿を探りに配下を一人向かわせます。
訪れた配下に司馬懿は下女二人に体を支えさせ、薬も一人で飲めずに零すほど体が弱っているように見せました。流石、昔曹操から出仕しろと言われて仮病で逃れようとした司馬懿、年季が違います。これにうっかり騙された曹爽は、司馬懿は最早刃向かうことはないと油断してしまうのです。
そして249年1月6日、曹芳は明帝の陵墓に参拝するため高平陵に向かい、曹爽とその弟の曹羲もこれに付き従いました。知恵袋である桓範が必死に引き留めるのも聞き入れずに……。
「子丹様は素晴らしいお方だったのに!お前たちは豚の子だ!!」
そして起こった高平陵の変、司馬懿によるクーデターにより、洛陽は抑えられてしまいました。桓範は何とか洛陽を抜け出して曹爽の元に辿り着くと、曹芳を擁して司馬懿との戦いを勧めます。しかし曹爽は司馬懿から「処分は免官まで、命まで奪おうというものではない」となると「解任されるだけならまだ私は裕福に暮らしていけるな!」と戦わずして司馬懿に降伏。
あまりのことに桓範は曹爽兄弟たちをその父、曹真と比べて嘆いたと言います。その後、249年1月10日、内部告発によって曹爽一派、及び、それと親しかった何晏らの処刑が決定するのでした。
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何晏へのラストスポットライト「誰が何晏を殺したか」
ここで何晏の話に戻ります。司馬懿は当初、何晏に曹爽らの裁判を命じました。何晏は自分だけでも助かろうと、丁謐、鄧ヨウらの名前まで書き出して厳しい罰を与えるように取り計らいました。しかしそんな何晏を見た司馬懿は
「捌くべき人物はもう一人のではないか?」と声をかけました。
「それは私のことでしょうか」
何晏のその言葉に司馬懿は頷き、何晏も連座して処刑となったのであります。さて最後から見ると何晏を処刑したのは司馬懿ですが、例えば辛ピの子の辛ショクなどは(姉の助言で)クーデターの際に曹爽の元に駆けつけるも、その振る舞いは「危急の時に主君に忠を尽くした」と評価されて処刑を免れたとされています。
その事からすると、もしかしたら何晏の最期の振る舞いが司馬懿の逆鱗に触れた可能性も無きにしも非ず。となると何晏を処刑したのは、何晏の振る舞いそのものであったのかもしれません
三国志ライター センのひとりごと
何晏、最期が最期なのでどうにも正当に評価をし辛い人物でもあります。ですがそんな中で、どうして何晏はそこまで足掻いたのか、も気になる所です。事実、優秀であった人物が二代に渡る冷遇で心身共に腐り墜ちたのか。それで尚、最期の最期で自分が成したかったことを思い出して生き足掻いたのか。それともただ同朋を生贄にしただけか。
もしかしたら人によって色々な見方ができる人物かもしれませんね、何晏は。ちゃぽん。
参考:魏書曹真伝付属何晏伝 魏氏春秋
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