魔王・董卓の死後、中原では董卓の家臣だった李傕&郭汜や曹操・袁術らによって、激しい勢力争いが繰り広げられていました。
その一方で、「我こそが河北の覇者だ!」とばかりに、ドンパチやっていた公孫瓚と袁紹のお二人。
どちらも中華の覇者になる夢を果たせないまま、敢え無く散ってしまうのですが、もし公孫瓚と袁紹がタッグを組み曹操と対決していたら、勝敗の行方は史実とは違う形になっていたかもしれません。
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史実ではご存知通り公孫瓚は袁紹に滅ぼされてしまいますが…
正史によると、192年勃発した界橋の戦いにおいて公孫瓚は、自ら奸計をもって処刑した劉虞の遺臣、鮮于輔が率いる烏丸・鮮卑勢と、羌族が得意とする対騎兵戦法をマスターした、麹義擁する袁紹の連合軍にこっぴどく負け敗走。
追撃軍を退けつつ、易京へ何とかたどり着いた公孫瓚ですが、ある日袁紹軍に包囲された将軍からの援軍要請を、
「援軍送ったらそれを頼りにして頑張って戦わないじゃん!」なんてイミフな理由で断り見殺しにした結果、国境守備軍が自滅もしくはあっさり破れ、袁紹は何の苦労もなく居城を包囲します。
ただ易京は幾重にも巨大城壁が築かれた堅城で、食料も10年分備蓄していたため、事ここに至っても公孫瓚はまだまだ勝つ気満々、袁紹からの降伏勧告を突っぱね、下女と妾だけを近くに侍らせると、自らの楼閣で引きこもり生活をスタートさせます。
しかしそんなに世の中甘くない、地下道を掘って攻め寄せた袁紹軍に居住する楼閣を崩され、最期を悟った公孫瓚は妻子を殺し、炎の中自害して果てることになります。
公孫瓚・袁紹からの降伏勧告を受諾!
元来の傲慢かつ猜疑心の強い残念な性格も公孫瓚の敗因ですが、易京の堅牢さもさることながら、「腹が減っては戦はできぬ」と昔から言うように、10年食べ続けられるだけの食糧が備蓄されていたことで、彼の慢心は増長したと考えられます。
事実、勢いに乗って公孫瓚の居城を包囲した袁紹ですが、1年以上対峙によって兵糧が尽き、退却を余儀なくされた麴義と劉和の軍を散々に打ち破られるなど、苦戦を強いられます。
ここで歴史の神様にお出ましいただき、易京城内でネズミが大量発生し、備蓄していた穀物がことごとく食い荒らされ、長期にわたる籠城が困難になったとしましょう。
これにはさすがの公孫瓚も大慌て、それもそのはずいくら城壁で敵を寄せ付けなくても、食料が尽きればたちまち軍は崩壊、自滅するのが火を見るより明らかだからです。
一方、勇将・麴義に破られるなど易京攻略に手を焼いていた袁紹は、沮授や田豊から知恵を借り公孫瓚の尊大で傲慢な性格をなだめすかせる、巧妙な文言で綴られた降伏勧告を送ります。
もちろん、易京の食糧枯渇を一切知らないが故の袁紹の降伏勧告でしたが、じわじわ噂が噂を呼び離散する兵が出始めていた公孫瓚陣営からすれば渡りに船。降伏ではなく「停戦」という体裁を保ったうえではあるものの、勧告を受け入れた公孫瓚は、固く閉ざされた易京の門を自ら開いたのでした。
公孫瓚・持ち前の機動力で袁紹軍のピンチを救う!
こうして袁紹の軍門に下った公孫瓚ですが、完全に野心を捨て去ったわけではなく、当初はチャンスを見て群雄として再起を図る気満々でした。しかし、袁紹の名家出身らしい威厳に触れ、英傑・智将そろいの配下たちと交流するうち、心から袁紹を敬い忠誠を尽くすようになっていきます。
顔良・文醜の2枚看板に白馬将軍を加えた袁紹軍の陣営は中華随一、呂布を破ったのち張繍陣営を吸収し、対立姿勢をあらわにしていた曹操を倒す体制が、整ったと考えた袁紹は、200年ついに大軍を率いて河南へ侵攻を始めます。
緒戦こそ顔良・文醜を打ち取られるなど苦戦を喫した袁紹軍ですが、豊富な兵力・物資を武器にジリジリ曹操陣営を圧迫し、陽武から官渡へと曹操軍を破って進軍。
官渡の砦を防衛線にした曹操軍でしたが、留守中の領地で反乱が起きたり、兵糧が枯渇し兵が疲弊、袁紹への内通者が続出するなどてんやわんやの状況に陥ります。
一方の袁紹は、兵糧輸送と保管拠点・烏巣守備の大役を淳于瓊に一任しますが、袁紹陣営から離反した許攸の密告によってそれを知った曹操軍が烏巣を急襲。淳于瓊も曹操軍の来襲に粘りを見せてはいましたが、烏巣を制し兵糧を奪えなければ、「負け」が確定する曹操軍の決死覚悟の猛攻に、じわじわと押され始めます。
兵糧拠点陥落という最大のピンチに登場するのが誰あろう公孫瓚、烏巣救援に名乗りを上げた彼は、百戦錬磨の白馬部隊を率いことごとく曹操軍を撃退します。
烏巣襲撃に失敗した曹操軍にもはや打つ手はなく許昌へ退却を始めるも、機動力抜群の白馬部隊に追いつかれ、哀れ曹操は志半ばにして戦死を遂げることになるのでした。
袁紹・中原の覇者となり後漢皇帝を擁立し公孫瓚を大将軍に!
天下分け目の決戦に勝利した袁紹は威風堂々と許昌へ入城、曹操が擁立していた献帝を手に入れ、晴れて悲願であった「中原の覇者」となります。
その後袁紹は丞相として行政を取り仕切るとともに、長男である袁譚を後継者に据えたうえで、次男・三男へその補佐を命じます。また、戦功著しかった公孫瓚には北方一帯を割譲、武官の最高位である大将軍に抜擢しました。
元々、4代にわたって三公を輩出してきた後漢きっての名家出身である袁紹の治世は、非常に人徳にあふれたものであったため、彼の生存中は安定していました。
しかし袁紹も人の子、過酷な政務やこれまでの激戦などが災いし病に倒れ、数年後この世を去ると、朝廷の政治は一気に混乱の様相を呈し始めます。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
ライバル曹操と対峙した時、袁紹はすでに推定50歳になっていたうえ、史実では官渡で敗れた2年後にあっけなく病没していることを考慮すると、中原の覇者になれたとしても、その後数十年現役で政権を担い続けられるとは思えません。
また、息子らによる骨肉の争いが避けられたとしても、英傑・袁紹がこの世を去ったのを好機と捉えた公孫瓚とその一族が、再び野心をあらわにしてクーデターを起こす可能性も高いと筆者は考えています。
いずれにしろ、もし袁紹と公孫瓚が堅く手を握り官渡の戦いに臨んでいたら、曹操に勝利する可能性もかなり高かったと考えています。
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