三国志の主役である劉備玄徳の死後、蜀漢の第2代皇帝となった劉禅は、優秀な家臣の言いなりになっていたすぎない、出来損ないの暗君だと評されることも多い人物。そんな彼が本当に凡人だったのか、はたまた偉人だったのか様々な角度から検証します。
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劉禅が凡人ですらなく暗愚だったと言われている由縁
幼名である「阿斗」が人を罵倒する際に用いられる、「アホ」の語源とまで言われる劉禅。
夷陵の戦いに敗れた後病床に伏せ、いよいよ死が迫った先帝・劉備が残した、「これからは丞相(諸葛亮)を父と思い仕えなさい。」という遺言を忠実に守り、政務のほとんどを諸葛亮に委任していたのは事実です。
しかし、父帝が没し2代皇帝に即位したとき劉禅は若干17歳。経験や行政能力に勝り、蜀の有力者や文人たちと太いパイプを持つ諸葛亮が、彼に変わって政務全般を仕切るのは、至って当然のことです。
ただ、諸葛亮の死後も全く政治に興味を示さず、蒋琬・費禕・董允といった能吏へほぼ丸投げ状態。
劉禅自身は後宮の人員増員を要請するなど、遊興ばかりに明け暮れていたという記録が多いことも、彼の評価を落としている大きな理由です。
決定打となったのは、賄賂や不正が横行し蜀の弱体化が顕著となり、滅亡するきっかけを作った宦官、黄皓を寵愛・重用したことでしょう。
また蜀滅亡後、司馬昭が劉禅を招き開いた酒宴における、「蜀は恋しくない」という亡国や家臣を顧みない発言が、「劉禅=暗愚」というイメージの定着に、一層拍車をかけたのです。
そもそも劉備は偉人?劉禅との共通点を探ってみた!
偉人とは、「並外れた才能を持つ人物」のことを指し、苛烈極まる三国時代を生き抜くためには、武芸・軍事・政治の才が求められます。
劉禅の父にして、三国志きっての英雄ともてはやされる劉備ですが、武芸で言えば張飛・趙雲らに到底及びません。
さらに、敗戦を喫しては各地を逃げ回ってきた彼の戦歴を見る限り、軍事的才能に秀でていたとは、到底言い難いものがあります。
政治的手腕にしても、曹操に破れ敗走してきた呂布を迎え入れたものの、結局裏切られ危うく命を落とすところでした。
その後、呂布が曹操に処刑されると仲良く都入り、破格の歓待にご満悦だったのもつかの間、曹操暗殺という大博打に出て見事に失敗するなど、とても褒められた経歴ではありません。
そんな劉備が偉人として、三国志において名を刻んでいる理由は、関羽を始めとするそうそうたる将軍たちや、諸葛亮・龐統といった軍師に加え、孫乾・伊籍・麋竺・法正などなど、列挙にいとまがない優秀な官吏たちが、彼を強力にサポートしていたからにほかなりません。
つまり、蜀の建国という一大事業を除けば、劉禅と劉備のしてきたことにさほど違いはなく、「政治的バランス感覚」という才能は、優柔不断で風見鶏のようにフラフラしていた父より、劉禅の方が優れていたとさえいえます。
劉禅が辺境「蜀」の君主として残した功績と罪
劉禅が蜀を引き継いだ当時、蜀の置かれていた立場は非常に危うく、屋台骨だった関羽・張飛もそろってこの世を去っており、234年に諸葛亮が没すると、より一層「蜀1弱」の傾向が強まりました。
そんな状況下で、40年もの長きにわたり社稷を守り抜いた劉禅は、例え「良きにはからえ君主」であったとしても、三国史上類を見ない稀有な皇帝であるといえます。もちろん、黄皓の言を疑いもせず姜維への援軍要請をスルーした挙句、大した抵抗もしないまま成都を明け渡して蜀を滅亡させた、2代目皇帝としての「罪」があるのは事実です。
しかし、この無血開城により蜀に生きる多くの民が、戦渦に巻き込まれなかった点は「功績」といえるでしょう。
劉禅と豊臣秀頼を入れ替えるとよくわかる真の姿
生い立ちや境遇など、劉禅と近い立場にあるのが天下人豊臣秀吉の長子、豊臣秀頼です。
貧しい身分から成り上がった偉大なる父を持ち、その地盤を年端もいかぬ身で、引き継いだ2代目当主。そして、自らの代で帝国を滅ぼしたバカボンであり、劉禅の場合は姜維。秀頼の場合は石田三成という、「徹底抗戦」を主張する家臣がいました。
さらに2人とも天下を分ける大戦に、「旗頭」としても参加していないことも共通しますが、唯一違うのは当時の蜀と、豊臣政権との国力の差です。関ヶ原の戦い時点で家康陣営と豊臣陣営との力は五分、いやむしろ豊臣方優勢であったとすら言えるでしょう。
タラレバになりますがおそらく秀頼公出陣となれば、まともに攻められる家康方大名は少なく、豊臣方の圧勝となっていたはず。一方、蜀は十中八九勝てる見込みのない戦い、社稷を守るのが使命である劉禅が、戦いに一切かかわらなかったことを責めるのは、少々酷というものです。
三国志ライター 酒仙タヌキの独り言
そもそもの話をすると、三国時代含め古代中国王朝の皇帝が戦場への参陣はおろか、政治に口を挟むことすらほとんどなく、玉座に座し朝廷百官の働きを威厳を保ちつつ、黙って見守るのがその役割でした。
古代中国の帝王学的に言うなら、戦場を駆け巡り自分で何でもしないと気が済まない、曹操の方が異例で劉禅の方が泰然自若、落ち着いていてどんなことにも動じないが、「真の帝王」と思えてなりません。「安楽公」という、なんとも体を名で示すような地位に封じられた彼は、271年に65歳でこの世を去りました、諡号は思公。
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