孫権(そんけん)の部下には名将と言われる人物が多くおります。孫権の部下である陳武(ちんぶ)も周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)よりも、もしかしたら忠誠心あふれる人物かもしれません。更に陳武の長男と妾の子も陳武同様、孫権と孫呉政権に忠誠を尽くしているのです。今回は忠将・陳氏一族の名将ぶりをご紹介していきたいと思います。
孫策の時代に仕える
孫策は袁術(えんじゅつ)から兵士をもらうと江東へ向けて進撃を開始。数ヶ月後には江東を統一することになるのですが、江東統一を果たしたときに多くの有能な武将が孫策に仕えることになります。代表的な例を上げると孫策と断金の交わりを結んだ周喩や孫策と互角の腕前を披露した太史慈(たいしじ)、江東の二張と言われた張昭(ちょうしょう)、張紘(ちょうこう)、董襲(とうしゅう)や凌統(りょうとう)の父・凌操(りょうそう)などの武将や文官です。
更に父・孫堅(そんけん)時代からの重臣である黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)、程普(ていふ)、朱治(しゅち)らが加わる事によって孫策が平定した江東地方は、少しづつ安定していくことになります。さて陳武は太史慈や江東の二張達よりも早く孫策に仕えております。陳武は孫策が袁術の下から離れる前に寿春(じゅしゅん)で孫策にお目見えして、そのまま孫策に仕えております。ついでに陳武の身長は185cm以上あったそうで、大きくて強そうな感じを感じさせる雰囲気を出した人物であったのでしょう。
将軍にまで出世
陳武は孫策に仕えると江東平定戦で大いに活躍して武功を重ねていきます。盧江(ろこう)の劉勲(りゅうくん)を討伐した際に多くの兵士達を捕虜にすることに成功。孫策は盧江攻略戦で捕虜になった兵士達で編成した軍団を陳武へ与えます。陳武は孫策から軍団を与えられると孫家に反旗を翻す異民族や孫家に反抗する勢力達の討伐へ向かい一戦も敗北することなく勝利を重ねていきます。孫策が亡くなると陳武は将軍の位を孫権から与えられ、孫家の本拠地防衛を命じられることになります。
合肥の英雄から孫権を守って戦死
陳武は孫家の因縁の場所となる合肥攻略戦に参加。曹操軍は張遼(ちょうりょう)、李典(りてん)、楽進(がくしん)の三将軍に加え、7000人ほどの兵士が合肥(がっぴ)城を守っておりました。孫権はこの合肥城へ10万の大軍で押し寄せて一気に押しつぶそうとしておりました。
普通に考えれば孫権軍の大勝利でこの戦いは締めくくられることになり、孫呉の武将の多くも「楽勝で勝てるだろう」と楽観していたのではないのでしょうか。だがここでとんでもないことが起きます。張遼が覚醒して無双状態になり800人で合肥城から打って出て、孫権軍10万へ突撃を敢行。孫権は無双状態の張遼の突撃を受けて討ち死にしそうになりますが、陳武が己の身を呈して孫権を守ったことでなんとか危機を脱します。
だが陳武は孫権を守るため張遼に討ち取られてしまうのでした。周喩や魯粛、呂蒙も忠誠心をもって孫権に仕えておりましたが、自らの命を犠牲にして孫権を守った陳武のほうが上記の三人の武将よりも、忠誠心において優っていたのではないのでしょうか。
陳武の跡を継いだ長男・陳修(ちんしゅう)
陳武が亡くなると長男である陳修(ちんしゅう)が陳武の跡を継ぎます。19歳になった陳修は孫権から「親父殿は立派な武将であった。親父殿を見習って孫呉のために尽くしてくれ」と声をかけられ500人の兵を率いる武将へ取り立てられることになります。
当時孫権に新しい兵を与えられた武将達は兵士が逃亡を繰り返して困っていたそうです。しかし陳修は500人の兵を与えられると家族同然に扱って大切にしたことで、誰ひとり逃亡することなく兵士達は陳修に忠誠を尽くすしていました。陳修は家族同然の兵を率いて各地で活躍し武功を重ねて行った結果、孫権から呼び出されます。陳修は孫権の前に参上すると「親父殿の武功を再評価するとともに、新しく与えられた兵士を誰ひとり逃亡させない君の手腕を評価し侯の位と特殊部隊である解煩督(かいはんとく)を任せる」と伝えられます。
陳修はかしこまって孫権の命令を受けます。名将や勇将・猛将などであった初代に比べると二代目は大体ポンコツもしくは、あまり活躍することなく歴史の中に埋没してしまうことが多いのですが、陳修は孫権に能力を認められて評価されると共にしっかりと武功を残して、孫呉に忠誠を尽くしております。陳武同様忠将と言っていい武将ですが孫権が皇帝に即位した年に亡くなってしまいます。
陳武の妾の子が忠将の跡を継ぐ
陳修が亡くなると孫権の皇太子に仕えていた陳表が活躍することになります。陳武の家は陳修の息子が跡を継いでおりましたが、陳武・陳修の気風を受け継いでいたのは妾の子・陳表(ちんひょう)でした。陳表は孫権から特殊部隊・無難軍(ぶなんぐん)を任せられることになります。
国家のために恩賞を返還
陳表は無難軍を率いて山越(さんえつ)族討伐戦に参加していた諸葛恪(しょかつかく)の援軍として向かうことに。この山越討伐戦で武功を挙げた陳表は孫権から小作人1000人を下賜されます。陳表はこの小作人を受け取った後体つきの良い民衆が多くいたため、身体調査をした結果、半分以上の人数が兵士として役に立つことが判明。
そのため陳表は孫権へ「昨日頂いた小作人1000人の中で、かなりの人数が兵士として役に立ちそうなので陛下に返還して、精鋭部隊として編入させていただきたいと思います。」と進言。孫権はこの陳表の進言を聴いて「親父殿の武功と君の武功を鑑みて与えたものだ。褒美を返還することは許さんぞ」と反対意見を述べます。しかし陳表は「現在国家のために人材を集めることが急務であり、兵士として優秀な人材を私の召使にしておくなど勿体のうございます。」と孫権の反対意見に逆らって精鋭部隊として自らの配下に加えてしまいます。
孫権はこの話を聞くと陳表の忠誠心を褒めたたえたそうです。その後陳表は陸遜(りくそん)から推挙されたことがきっかけで、将軍の位に昇進することになりますが、34歳の若さでなくなってしまうのでした。陳表は孫権からもらった財産や給料は全て自らの配下に与えていたため、陳表家には余財がなかったそうです。この余財のない陳表家の状態を見た孫権の皇太子であった孫登(そんとう)は自らの財で新しい家を遺族のために立ててあげたそうです。まさに父・陳武、陳武の嫡子であった陳修の血を色濃く受け継いで、
孫呉のために自らの人生を捧げた陳表も忠将に数えられる忠誠心を持っていたと言えるでしょう。
三国志ライター黒田レンの独りごと
周喩、魯粛、呂蒙の三人も智謀と計略を尽くして孫権と孫呉政権に忠誠心を尽くして、仕えていたと思います。陳武・陳修・陳表の陳氏三代は周喩のような智謀はなく、魯粛のように政治力に優れた人物でもありません。また呂蒙のように孫呉の領土を拡大することに寄与していたわけでもありません。
しかし陳氏三代が周喩、魯粛、呂蒙の三人よりも忠誠心の点では、優っているのではないのでしょうか。三代に渡って孫権と孫呉政権に忠誠心を尽くして仕えた陳氏三代こそ、孫呉を代表する忠将と言っていい武将であり、陳氏三代のように孫権へ忠誠心を尽くして仕えた武将がいたからこそ、超大国の魏と向かい合っても互角に戦うことができたのではないのでしょうか。
参考 ちくま文芸文庫 正史三国志呉書 小南一郎著など
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