正史では貧乏豪族の家に生まれ、傭兵隊長として30年の戦塵に塗れ、多くの群雄の間を渡り歩き、最期には蜀の地を占めて皇帝になった男、劉備(りゅうび)任侠的な人物でありながら、おべんちゃらとコネで乱世を乗りきった男はどうして、あんないい加減な性格になったのでしょうか?
今回は劉備の二つの出身地から、その謎を読み解いてみましょう。
この記事の目次
劉備の所属する幽州人の性格は?
劉備が所属するのは中華の北の外れである幽州です。今でこそ、首都北京がある幽州ですが、三国志の時代には、異民族と漢族が混在する土地であり、生産力も人口も非常に低い土地である事は、SLG三國志1をプレーした人なら頷けると思います。何しろ、ゲームをしていると人口が少なすぎて、下手すると兵力より人口が下回り何年間も徴兵出来ず、仕方なく兵を解放して人口を増やして自然増を待つという気の遠くなる展開を余儀なくされる土地なのです。
同じく、地の果てとイメージされていた并州の呂布(りょふ)は劉備を見て、「同じ田舎者だな!あんたには親近感を感じるぜ」と言ったそうで、内心、おしゃれなシティーボーイを自負する劉備は気分を害したとか何とか・・そんな幽州人の性格は、①酒が大好きで義兄弟を造りたがる②他人の面倒見が良い ③勇気は凄いがバカ ④中央志向だそうです。
劉備が手本にした?義兄弟がいた公孫瓉
幽州人は、やたらに義兄弟を造りたがる風土であるようです。桃園三兄弟は、演義のフィクションですが、実際に劉備と関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は、同じ寝台で寝ていたという親しい間柄でした。また、劉備の兄貴分で同郷の公孫瓉(こうそんさん)は、元占い師の劉緯壱(りゅう・いいち)、絹商人の李移子(りいし)商人の楽何当(がくかとう)を義兄弟にしています。
公孫瓉は、士大夫が大嫌いで、このような士大夫以下の庶民階級ばかりを重用しました。そりゃ悪政にもなりますよ、直情バカが徹底していますね。
三国志には、命知らずの壮士を囲う人は、袁紹(えんしょう)や司馬師(しばし)のようにいますが、やたらに義兄弟を造るのは幽州人に見られる特徴のようです。
他人の面倒見が大変に良い劉元起、盧毓、程普
一方、幽州人は面倒見が良い人々としても知られています。例えば、劉備と同族の劉元起(りゅうげんき)は、妻に「同族でも生計は別」と小言を言われても劉備の将来を見込んで学業を援助していました。しかも劉備は、ろくろく勉強もせず、美しい服を着て、我が身を飾り、闘犬や音楽にうつつを抜かすというボンクラ学生ライフを送っていたにも関わらずです。
同じく幽州人の盧植(ろしょく)末子の盧毓(ろいく)は、父の死後、早世した兄達の子供や兄嫁を養育していましたし、右北平郡出身の程普(ていふ)は、他人への援助を惜しみませんでした。このように幽州人は他人への面倒見の良い人々なのです。
そう言えば、劉備も刺客として送られた男を丁重にもてなして、あんたを殺す事は出来ないと殺害を断念されていますから、同じく幽州人の面倒見の良さを持ち合わせているかも知れません。
鷲のような勇気の持ち主 張飛、徐栄、孫礼
また、幽州人は、鷲のような向う見ずな気性を持つ人々で命知らずでした。それは、劉備の同郷人、燕人張飛を見ていれば、分かります。そうじゃないなら、圧倒的な多数で攻めよせてくる曹操軍精鋭、虎豹騎(こひょうき)を向うに回して、長坂橋で「命が惜しくないヤツから掛って来い」とは言えませんよ。
董卓軍の徐栄(じょえい)も幽州出身ですが、孫堅(そんけん)も曹操(そうそう)も破った最強の将軍です。おそらく張飛並みに苛烈な戦い方をしたのでしょう。また、魏の曹叡(そうえい)に仕えた文官の孫礼(そんれい)も幽州人ですが、曹叡の御車に襲いかかる虎を剣で斬ろうとするなど向う見ずな勇気を発揮しました。
劉備もプッツンキレると、後先考えず、上司の督郵(とくゆう)を掴まえて鞭で叩いたり、曹操軍の進攻を黙っていた劉琮(りゅうそう)の使者、宋忠(そうちゅう)の頭を剣で叩き割ろうとし、すんでの所で思いとどまるなど、向う見ずな気性はありますが、張飛や徐栄に比べれば、可愛いものと言えるレベルでしょう。
没落した幽州人群雄と劉備の大きな違い、殷人の血とは?
しかし、幽州から起こった群雄は、公孫瓉にしろ、遼東公孫氏にしろ、あまりにも名士を殺し過ぎて、ろくな人材がいなくなり滅亡していきました。また、辺境の群雄である董卓(とうたく)や呂布は、攻めている間は無敵ですが、一度守勢になると、再び巻き返す事が出来ず、防戦一方で滅んでいきます。
その中で劉備だけが例外的に、何度も窮地をくぐり抜け、不死鳥のように復活し、最期には諸葛亮(しょかつりょう)を得て、赤壁の一発逆転から益州を得て、三国の一角を占めたのは何故なのでしょうか?それは、劉備が天運を掴み、他の群雄が持ちえないモノを持っていたからスピリチュアル的に言えば、それはそうですが、それ以外の部分に、幽州以外に、劉備の行動に影響を与えた中山靖王の血も無視できません。劉備の遠い祖先、中山靖王、劉勝(りゅうしょう)が封じられた中山国、、それは、周王朝に滅ぼされた殷(いん)の遺民が封じられた国でした。
史記貨殖列伝にある 殷の遺民の性格
では、劉備のもう一つの故郷である、中山国の人間の性格とは、一体、どういうものであったのでしょうか?
史記貨殖列伝によると、以下のような散々なものです。
「軽薄残忍で、ずるがしこい手段により生活している男性は互いに集まって遊び戯れ、悲歌慷慨し、活動するとなると、仲間を組んで強盗を働き、休息すると墓を暴いて供物を盗み、巧みに人に媚び、楽器類を弄んで俳優などを勤める。女性は貴顕・富豪に媚び、後宮に入り、どこの諸侯の国にも出かけている」
殷人は、領地を奪われて生産手段を失ったので、経済活動によって身を立てるしかなくなり、必然的に商人的な嗅覚が発達しました。実際に、殷人は自分達を商と呼んでいて、商業で身を立てる人が多くやがて商人は商売人を意味する言葉になっています。
劉備は殷人の末裔として、利害損得の嗅覚に優れていた!
劉備が、幽州人群雄の典型的な没落を免れたのは、この殷人の末裔としての利害損得の鋭敏な感覚の賜物でした。例えば、軽薄残忍は、劉備が、公孫瓉、陶謙(とうけん)、曹操、袁紹、劉表(りゅうひょう)と各地の群雄を渡り歩き恩義を受けながら、情勢が不利になると、さっさと逃げてしまう点が共通します。
ずるがしこい部分では、義勇兵として立った初期に、自軍が全滅し死んだふりをして戦争をやり過ごし、手柄を吹聴して県尉に取り立てられる点にもあり赤壁の後始末をする周瑜(しゅうゆ)を尻目に、南郡を実効支配したり、同族の劉璋(りゅうしょう)の益州を乗っ取ったり、幾つも該当箇所があります。
仲間を組んでというのは、劉備の所帯は、出身地で固まらず仁義で繋がれる各州からの寄り合い所帯ですし、荊州では脾肉の嘆などを残して慷慨しています。
巧みに人に媚びるのは、元は敵だった袁紹や曹操にも平気でおべんちゃらを使って世話になる口の上手さと神経の図太さがありますし、曹操に野心を疑われ、箸を落しても落雷のせいにして言い逃れる演技力もあります。このように劉備は、幽州人としての面倒見の良さと向う見ずな勇気、それに殷人のずるがしこさや、おべんちゃら、残忍酷薄さや演技の上手さがブレンドされたハイブリット人間だったのです。これこそが劉備を他の群雄から抜けださせ、天下の一角を占めた理由でしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
劉備の性格を見ると、先祖の中山靖王、劉勝が封じられた中山国の影響が非常に濃いように感じます。天下の形勢を見続け、利害を見分け、時に大胆な行動で天下への道を切り開いた劉備は、群雄であると同時に一流の商人とも言えるでしょう。戦乱の時代に生まれなければ、案外、大商人になったかも知れませんね。
※参考:出身地で分かる三国志の法則
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