曹丕(そうひ)は曹操(そうそう)が亡くなると漢王朝を滅ぼし、皇帝となり魏王朝を建国します。彼は魏王朝を建国すると色々な政策を作り、王朝の安定に力を尽くします。しかし彼は若くして亡くなり、息子の曹叡(そうえい)が二代目皇帝に就任します。さて曹丕の跡を継いだ曹叡は一体どのような人物であったのか探っていきたいと思います。
この記事の目次
曹叡とはどんな人物か
曹叡は幼い頃から博識多才で、曹操は曹丕に「お前とこの子で魏の国は三代まで安心できる」とべた褒めします。また漢の王族出身の家臣である劉曄(りゅうよう)は曹叡が皇帝に就任する前、一日かけて彼と話し合います。その後群臣らに「秦の始皇帝、漢の武帝と同じくらいの素質がある」と評価。この言葉を聞いて群臣達は新たに皇帝になった曹叡に期待します。
魏王朝二代目皇帝に就任
曹丕は突如病に倒れます。彼は自らの死期を感じると曹真・陳羣(ちんぐん)、曹休・司馬懿を呼び、「曹叡を盛り立てて魏国を安定させよ」と遺言を託し亡くなります。四人は曹丕の遺言通り、曹叡を皇帝に擁立。こうして後に明帝と諡(おくりな)される二代目皇帝曹叡が誕生します。
器の大きい皇帝
曹叡は始め四人の臣(曹真・陳羣・曹休・司馬懿)の補佐を受け、政治を行います。その後彼が成長すると自ら政治を取り仕切っていきます。曹叡は人事や政治を行う際、必ず大臣に相談してから行います。大臣の一人である楊阜(ようふ)は曹叡から相談を受けると人事や政治で間違っている部分に厳しい忠告を行います。彼は自分の行動や政策に厳しい批判や注意を行う楊阜を処罰する事無く、重用します。
戦略をしっかりと把握し、的確な指示を出す皇帝
曹叡は戦局をしっかりと把握し、的確な指示を出します。諸葛亮孔明は魏を打倒するため、北伐を開始。すると蜀の同盟国である呉も連動して魏へ侵攻を開始します。長年呉の侵攻を拒み続けてきた「孫権キラー」満寵は曹叡に「合肥(がっぴ)を捨て、孫権軍を寿春で迎撃するのは如何でしょうか」と手紙で進言。
しかし曹叡は「合肥・襄陽(じょうよう)・祁山(きざん)は魏の国防において、非常に重要な拠点である。また合肥は堅固で孫権軍が陥落させるのは無理であるから、君はしっかりと合肥を守ってくれ」と返信します。その後皇帝曹叡自ら合肥へ出陣。すると孫権軍は皇帝直々に出陣した事を聞き、急いで退却し、孫権軍を追い払う事に成功します。
【北伐の真実に迫る】
西の蜀軍に対しても的確な指令を出す。
曹叡は洛陽を発つ前、蜀軍の迎撃に出た司馬懿に手紙を送ります。曹叡は司馬懿に「君は砦を築き、持久戦の構えを取るように。そうすれば蜀軍は食料が無くなり、撤退するであろう。蜀軍が撤退に移ったらすかさず追撃をかけるように。」と指令を出します。司馬懿は曹叡の命令を守り、砦を築き、蜀軍が挑発してもけっして出撃しないで、守りを固めます。その後孔明が亡くなり、蜀軍は退却を開始。この時司馬懿は蜀軍に猛追撃をかけますが、蜀軍に反撃され、追撃を中断します。しかし曹叡の指令をしっかりと守った事で蜀軍を追い払います。
土木工事を行い民に潤いを与える
曹叡は孔明の北伐が始まる前から、宮殿の増築や造園などの土木工事を行います。彼は土木工事を大々的に行い、民に給料を払う事によって、民衆が潤い、物の動きが良くなり、経済が安定すると考え、家臣の反対を押し切り、土木工事の政策を推し進めていきます。この政策は民を潤す事に成功します。しかし魏の国庫が傾き、財政が悪化してしまいます。
経済を立て直す前に…
曹叡は土木工事を推し進め、財政が傾いてしまいます。彼は財政を立て直す政策を出す前に、亡くなってしまいます。曹叡は次の皇帝を指名し、司馬懿らに後を託して亡くなります。彼が推し進めた政策で傾いた魏の経済は建て直す事が出来ず、家臣は魏の王朝に絶望し、魏は司馬一族に乗っ取られる事になるのです。
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三国志ライター黒田廉の独り言
曹叡は優れた面と優れていない面、両方を持った君主でありました。正史「三国志」を書いた陳寿は「決断力と見識に優れており、君主に取っては真に優れた気概である。しかし秦の始皇帝や漢の武帝と同じように宮殿や庭園を造営し、将来への配慮が足りなかった点が彼の大きな失敗であった。」と曹叡を評価しています。曹操や曹丕も欠点がありましたが、優れている人には何かしらの欠点が生まれてしまうのですね。
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